WWEP所属の佐伯 瑛太がプロレスリング ネクサスドリーマーズに参戦するまでの過程の物語。
立板三 様が小説、私が挿し絵を担当したコラボレーション作品です。

※絵はAI生成です。小説はAI生成ではありません。

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第一話 荒れる若獅子

窓の外では冬の冷気が街を支配していた。

しかしトレーニングフロアの内部には、季節とは無縁の熱気が充満している。汗の匂いがマットの繊維に染みつき、身体がぶつかる鈍い音が壁に反響し、荒い呼吸が途切れることなく響いていた。

それはプロレスラーたちの日常そのものである。

WWEP本社ビルの三階に位置するこのトレーニングフロアは、天井が高く、壁面の大半を鏡が占めている。リングこそ設置されていないが、スパーリング用のマットが広々と敷かれ、壁際にはサンドバッグやウェイトマシンが整然と並んでいた。照明は白く、隅々まで光が行き届いている。練習に集中するための空間として、過不足のない設備が揃っていた。

郡新がネクストドリームへ出向してから、およそ三週間が経っている。

佐伯瑛太はスパーリングの最中だった。

相手は同じパープルヴァイパー所属の中堅レスラーである。キャリア五年目で、安定した技術を持つ男だった。本来ならば若手にとって理想的な練習相手のはずだ。軽く流しながら技の確認をする程度の、いわば準備運動のような組み手になるはずだった。

だが、佐伯の動きは明らかに違っていた。

ローキックを放つ。

その勢いは練習用のそれではない。腰の回転を利かせた蹴りが鞭のようにしなり、相手の太腿を正確に打ち抜く。肉と肉がぶつかる乾いた音が、フロア全体に響き渡った。中堅レスラーの顔が一瞬歪む。

続けてタックルに入り、グラウンドに持ち込んだ。腕を取って極める関節技の角度が、実戦さながらに深い。肘の関節が本来曲がらない方向へじわりと圧迫され、筋肉が軋む音が、マットの上で確かに聞こえた。

「おい佐伯、力入れすぎだろ」

中堅レスラーが苦悶の表情を浮かべながら抗議した。眉間に刻まれた皺は痛みのためだけではない。困惑と苛立ちが入り混じった複雑な感情が、その顔に滲んでいる。タップはまだしていないが、その手は何度かマットを叩きかけていた。

しかし佐伯は舌打ちを一つ鳴らしただけで、手を緩める気配を見せなかった。

「これくらいで音を上げんなよ。実戦じゃもっとキツいだろうが」

その声には棘があった。

普段の佐伯なら見せないような、剥き出しの苛立ちが滲んでいる。瞳の奥に燃える炎は、練習への情熱とは明らかに別種のものだった。燃やすべき対象を見失った火が、手当たり次第に周囲を焼いているような危うさがある。

周囲で練習していたレスラーたちが、一人また一人と手を止めていった。

不穏な空気を敏感に嗅ぎ取ったのだろう。視線が二人のスパーリングに集中する。誰もが口を開かないまま、緊張した面持ちで成り行きを見守っていた。壁際で筋トレをしていた若手が、ダンベルを下ろして振り返る。サンドバッグを叩いていた先輩が、拳を止めて眉をひそめた。

フロア全体に、張り詰めた空気が広がっていく。

佐伯の態度がここ数週間で急激に悪化していることは、この場にいる誰もが知っていた。デビュー一年未満の若手が、先輩に対してあれほど攻撃的な態度を取ることは異例中の異例である。しかも日を追うごとにそれは酷くなっていた。最初は練習中の荒さだけだった。それが次第に言葉遣いにも表れるようになり、先輩への返事が素っ気なくなり、食事に誘われても断ることが増え、一人でいる時間が目に見えて長くなった。

まるで何かに追い立てられるように、佐伯は自分自身を追い込み続けている。

スパーリングが終了した。

中堅レスラーが肩を回しながらマットを離れていく。その背中からは、関わりたくないという意思が無言で滲み出ていた。佐伯はマットに座ったまま、荒い呼吸を繰り返している。額から滴る汗が、マットの上に小さな染みを作った。

そこへ、パープルヴァイパーの先輩レスラーが歩み寄ってきた。

三十代半ばの、穏やかな性格で知られる男である。チーム内では若手の相談役のような存在で、佐伯がデビューしたばかりの頃にも何かと世話を焼いてくれた人物だった。体格は大柄だが、その物腰には常に柔らかさがある。佐伯がWWEPに入ってきたとき、最初に声をかけてくれたのもこの男だった。

しかし今、その穏やかな瞳の奥には、隠しきれない心配の色が浮かんでいる。

「お前、最近キレすぎだ。何があった」

佐伯は立ち上がり、首にかけたタオルで汗を拭いながら、素っ気なく返した。タオルの白さが、蛍光灯の光を反射して眩しく光っている。

「別に何もねえよ」

「嘘つけ」

先輩の声が、一段だけ低くなった。普段は滅多に見せない厳しさが、短いその一言に凝縮されている。

「郡が出向してからだろ。お前がおかしくなったの」

その名前が出た瞬間だった。

佐伯の手が止まった。

タオルを握る指に力が入り、布地が皺くちゃに歪む。目の奥を、暗い何かが一瞬だけ走り抜けた。唇が微かに震える。それは傷口を直接触られたときのような、避けられない痛みに対する本能的な反応だった。

しかしそれは本当に刹那のことで、すぐに虚勢を張った表情が顔の上に取り繕われる。

「あいつは関係ねえ」

佐伯は先輩の顔を見なかった。

視線をタオルに落としたまま、低い声で続ける。

「俺は俺だ。誰がいようがいまいが、やることは変わんねえよ」

「そうか」

先輩は深い溜息をついた。

その溜息の中には、諦めと、それでも消えない心配が入り混じっている。追及したところで、今の佐伯には何も届かないだろう。言葉が入る隙間を、佐伯自身が塞いでしまっている。分厚い壁を築いて、誰も中に入れまいとしているのだ。

それは、かつての佐伯には見られなかった姿だった。

デビューしたばかりの頃の佐伯は、確かに生意気ではあったが、もっと人懐こいところがあった。先輩の助言を素直に聞き、練習後には仲間と談笑し、冗談を言って場を和ませることもあった。パープルヴァイパーの毒々しいイメージとは裏腹に、チーム内での佐伯は意外なほど明るい若者だったのだ。

それが変わった。

郡新がネクサスドリームズへ出向した日を境に、佐伯瑛太は変わってしまった。

「まあ、他の奴に怪我させんなよ」

先輩は最後にそれだけ言い添えた。

「お前が干されても、俺は知らねえからな」

佐伯は返事をしなかった。

先輩の背中を見送ることもせず、一人でサンドバッグに向かう。フロアの奥、壁際に吊られた革張りのサンドバッグ。使い込まれた表面には無数の拳の跡が残り、縫い目が一部ほつれかけている。佐伯がここ数週間、繰り返し叩き続けてきた相手だった。

その足取りには迷いがない。

しかし同時に、どこか虚しさも漂っていた。向かう先はあるが、辿り着く場所がない。そんな足取りだ。背中に注がれる視線がいくつもあったが、佐伯は振り返らなかった。気にする余裕がなかったのかもしれない。

サンドバッグの前に立つ。

構えを取る。左足を前に出し、両拳を顔の高さに上げる。いつもと同じ構え。何百回と繰り返してきた姿勢だ。

拳を叩きつけた。

鈍い音が響く。サンドバッグが揺れ、吊るす鎖が軋む。また叩く。また響く。単調な繰り返し。拳を突き出し、引き戻し、また突き出す。呼吸に合わせて、機械のように正確なリズムで。

だが、その目は焦点が合っていなかった。

サンドバッグを見ているようで、見ていない。佐伯の意識は、目の前の革の塊ではなく、もっと遠い場所に飛んでいた。

あの日の通路。

冷たい空気。

そして、閉じられた扉。

郡新の背中が、瞼の裏に焼き付いている。

三週間前のあの瞬間、郡は振り返りもしなかった。「いずれ分かりますよ」という言葉だけを残して、静かに立ち去っていった。その背中は真っ直ぐで、迷いなど微塵も感じさせなかった。佐伯のことなど眼中にないかのように、郡は一歩一歩、確かな足取りで歩いていったのだ。

あの背中が、佐伯の目にはどう映ったか。

置いていかれた。

その感覚が、三週間経った今でも消えない。

何が分かるんだよ。

佐伯は拳を振るう。サンドバッグが大きく揺れ、鎖が甲高い悲鳴を上げた。

何も分かんねえよ。

また振るう。拳の皮膚が熱を持ち始めている。テーピングの下で、関節がじわりと痛んだ。

お前が何を考えてるのか、俺には全然分かんねえんだよ。

だが、郡は一人で歩いていってしまった。

その事実が、佐伯の胸に深い傷を刻んでいる。

怒りなのか。寂しさなのか。悔しさなのか。

佐伯自身にも、正確には分からなかった。

ただ、拳を振るわずにはいられない。身体を動かしていなければ、胸の中の何かが溢れ出してしまいそうで、それだけが怖かった。

サンドバッグを殴る音だけが、フロアに虚しく響き続ける。

周囲のレスラーたちは、もう佐伯を見ていなかった。関わりたくないという意思表示のように、それぞれの練習に戻っていく。誰もが佐伯との距離を測り、誰もが彼を視界の端に追いやった。

孤立していく若手レスラーの背中を、正面から見ようとする者はいない。

その背中は、どこか郡の背中に似ていた。

いや、違う。

郡の背中には覚悟があった。前に進むという確固たる意志が、あの真っ直ぐな姿勢に宿っていた。目的地を知っている人間の歩き方だった。

しかし佐伯の背中にあるのは、行き場を失った感情だけだ。

怒りなのか悲しみなのか、本人にすら名前をつけられない何かが、その背中に重くのしかかっている。前に進みたいのに、どこに進めばいいのか分からない。走り出したいのに、走るべき方向が見えない。

だから、ただ殴る。

目の前にあるものを、ただ殴り続けるしかなかった。

サンドバッグを叩く音は、いつまでも止まない。

冬の日差しが窓から斜めに差し込み、フロアの床に長い光の帯を描いている。その光は佐伯のいる壁際にはぎりぎり届かず、彼の姿は薄暗い影の中に沈んでいた。

拳を振るう音だけが、規則正しく、虚ろに、繰り返されている。

第二話 呼び出し

練習後の控室は、いつもより静かだった。

蛍光灯の白い光がロッカーの金属面に反射し、無機質な輝きを放っている。普段ならシャワーの水音や、誰かの笑い声や、スマートフォンから漏れる動画の音声が重なり合って、雑然とした生活感がこの空間を満たしているはずだった。

しかし今は、物音ひとつない。

他のメンバーは既に帰宅したのか、あるいは意図的に佐伯との接触を避けているのか。おそらく後者だろう。ここ数週間の佐伯の態度を見れば、わざわざ同じ空間に残りたいと思う人間がいないのは当然だった。

佐伯瑛太は一人きりで、ロッカーの前に立っていた。

汗に濡れたトレーニングウェアを脱ぎ、私服に着替える。何気ない日常の動作である。しかしその表情はどこか虚ろで、目の焦点が定まっていないようにも見えた。着替えながらも、頭の中ではさっきのスパーリングが反芻されている。先輩の顔を歪ませた自分のローキック。制御を忘れた関節技。周囲から注がれた、冷たい視線。

分かっている。自分がおかしいことくらい。

シャツのボタンをかけ違えたことに気づかないまま、佐伯は機械的に着替えを続けていた。鏡に映る自分の顔が、ひどく疲れて見える。目の下に薄い隈ができていた。最近、眠りが浅い。夜中に何度も目が覚め、天井を見つめるだけの時間が増えていた。

そのとき、ロッカーの棚に置いていたスマートフォンが震えた。

バイブレーションの低い音が、静寂の中で妙に大きく響く。

佐伯は何気なく画面に目をやった。

そして、動きを止めた。

『竹中康介』

その名前が、着信画面に表示されている。

竹中康介。

チームレッドドラゴンのボスにして、WWEPの取締役。そして現役の王者でもある男だ。業界における彼の影響力は絶大で、その名前を聞いただけで緊張するレスラーは少なくない。リング上では覇王と呼ばれ、圧倒的な実力で対戦相手を打ち砕いてきた伝説的存在である。WWEPという組織の頂点に立つ人間であると同時に、リングの上でもまた頂点に君臨し続けている男。

まして佐伯のような、デビュー一年にも満たない若手に直接連絡が来る相手ではなかった。

普通ならありえない。

階層が違いすぎる。佐伯から竹中までの距離は、トレーニングフロアから最上階のオフィスまでの物理的な距離よりも、はるかに遠いはずだ。その人間が、直接電話をかけてきている。

スマートフォンは震え続けている。

佐伯の心臓が跳ねた。指先が冷たくなり、口の中が急速に乾いていく。生唾を飲み込む音が、自分の耳に妙に大きく響いた。

三コール目で、ようやく通話ボタンに指が伸びた。

「佐伯瑛太くんだね」

受話器越しに響く声は、低く、腹の底に直接届くような重みを持っていた。

落ち着いた口調でありながら、有無を言わせぬ威厳がそこには宿っている。声量は決して大きくない。むしろ穏やかですらある。だが、その穏やかさの下に横たわる圧力は、電話越しであっても十分に伝わってきた。この声に逆らおうとする人間は、そう多くないだろう。

佐伯の背筋が、反射的に伸びた。

ロッカールームに一人きりであるにもかかわらず、まるで目の前に竹中が立っているかのような緊張感が全身を走る。

「は、はい。佐伯です」

「今から私のオフィスに来られるかな」

それは命令だった。

疑問形の形を取ってはいるが、実質的には命令以外の何ものでもない。「来られるかな」という言い回しの中に、断るという選択肢は含まれていなかった。来い、という意味だ。今すぐに。

「は、はい。すぐ向かいます」

それだけ答えるのが精一杯だった。

声が上擦っていることが自分でも分かる。情けないと思ったが、どうにもならなかった。リングの上では虚勢を張れる佐伯も、電話の向こうにいる人物の前では、ただの若手に過ぎない。

通話が切れた。

短い電子音が耳に残る。画面が暗くなり、佐伯の青白い顔が液晶に薄く映り込んだ。

スマートフォンを握る手が、微かに震えている。

手のひらには、いつの間にか汗がにじんでいた。練習中にはどれだけ激しく動いても乾いていた掌が、たった一本の電話で湿っている。身体は正直だった。

竹中康介から直々の呼び出し。

良い話であるはずがなかった。

最近の素行の悪さが、ついに上に報告されたのか。練習中の態度、先輩への無礼、チーム内での孤立。どれか一つでも問題になるのに、佐伯はそのすべてを同時進行で積み重ねてきた。取締役の耳に届いていないはずがない。

あるいは、それ以外の何かか。

いずれにしても、若手が取締役から個別に呼び出される事態は、尋常ではなかった。普通のレスラー人生を送っていれば、一生縁がないかもしれない。それが自分の身に降りかかっている。

佐伯は急いで残りの着替えを済ませた。

ボタンのかけ違いに気づいたのは、ロッカーの鏡にちらりと自分の姿が映ったときだった。舌打ちをしてボタンを外し、もう一度最初からかけ直す。指先がもたつく。普段なら考えるまでもない動作が、今はうまくいかなかった。

控室を出て、廊下を足早に進む。

WWEP本社ビルの廊下は広く、清潔に保たれている。壁にはWWEPの歴史を物語るポスターや写真パネルが等間隔に飾られていた。歴代チャンピオンの雄姿、名勝負のワンシーン、観客で埋まったアリーナの俯瞰写真。どれも華やかな瞬間を切り取ったもので、プロレスという世界の光の部分だけが凝縮されている。

普段なら目にも留めないそれらの写真が、今は妙に眩しく見えた。

自分はこの光の側にいる人間なのか。それとも、そこから弾き出されようとしているのか。

エレベーターホールに着く。

上向きのボタンを押し、扉が開くのを待つ。数秒の間が、異様に長く感じられた。やがて到着を告げるチャイムが鳴り、銀色の扉が左右に開く。佐伯は乗り込み、最上階のボタンを押した。

扉が閉まる。

ゆっくりと上昇が始まった。

階数表示が一つずつ増えていくのを、佐伯は見つめている。数字が変わるたびに、胸の奥で何かが締め付けられるような感覚があった。頭の中には、最悪のシナリオがいくつも浮かんでは消えていく。

解雇。

謹慎処分。

パープルヴァイパーからの追放。

どれも十分にあり得る結末だった。

この数週間の自分の態度を振り返れば、処分を受けても文句は言えない。先輩への無礼な態度、練習中の過剰な攻撃、周囲との軋轢。どれ一つとっても、若手として許される範囲を大きく超えていた。デビュー一年に満たない人間が取れる態度ではない。

分かっていた。

分かっていたのに、止められなかったのだ。

胸の中で渦を巻く何かが、理性のブレーキを押しのけてしまう。郡新がいなくなってから、そのブレーキの効きが日に日に悪くなっていた。自分でもどうしていいか分からない。制御の仕方を忘れてしまったかのように、感情が勝手に暴走する。

エレベーターの中は静かで、自分の呼吸音だけが耳についた。

壁面の鏡に映る自分の顔は、血の気が引いて青白い。目の下の隈が、蛍光灯の下では一層濃く見えた。練習後で髪は乱れ、シャツの襟が片方だけ中に折れ込んでいる。とてもではないが、取締役の前に出る身なりではなかった。

だが、整える余裕はない。

やがてエレベーターが最上階に到着し、扉が開いた。

一歩踏み出す。

最上階の廊下は、下の階とは明らかに空気が違っていた。床は厚手のカーペットに覆われ、足音が吸い込まれるように消えていく。壁には落ち着いた色調の絵画が飾られ、照明は蛍光灯ではなく暖色系の間接照明だった。天井が高く、廊下の幅も広い。下の階の機能的な造りとは対照的に、ここには権力というものの匂いが漂っている。

数歩進んだところで、佐伯はふと足を止めた。

郡もこの同じ道を歩いたのだ。

そう思い至ったからである。

出向を告げられたあの日、郡新はどんな気持ちでこの廊下を歩いたのだろうか。この厚いカーペットの上を、どんな足取りで進んだのだろう。不安だったのか。それとも、あの男のことだ、表情一つ変えずに淡々と歩いたのかもしれない。

分からない。

佐伯には、郡の心の内など分かるはずもなかった。

いつも冷静で、感情を表に出さない男。リング上では毒霧を吹き、反則技を駆使する苛烈なヒールでありながら、リングを降りれば驚くほど静かな人間だった。多くを語らず、自分の考えを安易に明かさない。その仮面の下に何があるのか、佐伯は一度も見たことがなかった。

見たいと思っていた。

知りたいと思っていた。

だが結局、一度も踏み込めないまま、郡は行ってしまった。

考えても答えは出ない。それでも考えずにはいられないのが、今の佐伯だった。

足を動かす。

取締役オフィスの前に辿り着いたのは、それから数十秒後のことだ。

その扉は重厚な造りをしていた。黒檀の木目が深い色合いを見せ、金属のプレートには「取締役室」の文字が端正な書体で刻まれている。扉の表面には細かな木目の模様が走り、年月を経た木材特有の風格が漂っていた。

この向こうに、竹中康介がいる。

佐伯は扉の前で足を揃え、深呼吸をした。

吸って、吐いて、もう一度吸う。肺の奥まで空気を入れ、ゆっくりと吐き出す。心臓の鼓動は相変わらず速いままだったが、呼吸を意識することで、わずかに頭がクリアになった気がした。

拳を握り、ノックをする。

乾いた音が、静かな廊下に響いた。二回。短く、正確に。

わずかな間があった。

「入りたまえ」

低い声が、分厚い扉を通しても明瞭に聞こえてくる。

その一言で、廊下の空気が変わった。暖色の照明に包まれた穏やかな空間が、一瞬にして緊張を孕んだものに変質する。声に込められた重力が、佐伯の足をその場に縫い止めるかのようだった。

佐伯は覚悟を決めた。

何の覚悟なのかは、自分でも分からない。処分を受ける覚悟か、叱責に耐える覚悟か、あるいはもっと別の何かか。ただ、この扉を開けなければ何も始まらないことだけは確かだった。

ドアノブに手をかける。

冷たい金属の感触が、汗ばんだ掌にひやりと伝わった。

第三話 覇王との対面

WWEP本社最上階、取締役オフィス。

扉を押し開けた瞬間、空気が変わった。

それは物理的な変化ではない。温度が変わったわけでも、湿度が変わったわけでもなかった。しかし、確かに何かが違う。まるで水底に沈んでいくかのような、全身を包み込む重圧がそこにはあった。呼吸をするだけで、肺の上に見えない重しを乗せられたような感覚が走る。

郡新が感じたであろうものと同じ圧力。

佐伯はそう直感した。

三週間前、郡はこの扉を開け、この空気を吸い、この部屋で出向を告げられた。そのとき郡は何を思ったのだろう。この重圧の中で、あの男はどんな顔をしていたのか。表情一つ変えなかったのか。それとも、誰にも見せない動揺を、あの冷静な仮面の下に隠していたのか。

考えても答えは出ない。だが、今の佐伯にはそんな余裕もなかった。自分自身の心臓が、胸の内側を叩き壊すような勢いで鳴っている。

オフィスの空間は広かった。

天井は高く、正面の大きな窓からは都心のビル群を見下ろすことができる。冬の夕暮れの光がガラスを通して斜めに差し込み、室内に長い影を落としていた。空の色は既に橙から紫へと移り始めており、ビルの輪郭が逆光で黒く浮かび上がっている。

壁際には重厚な黒檀のデスクが据えられ、その背後にガラスケースが三つ並んでいた。ケースの中には歴代の王座ベルトが飾られている。金色のプレートが照明を受け、静かに光を放っていた。WWEPの歴史そのものを凝縮したような輝きが、この部屋の主が何者であるかを無言で語っている。

そして、デスクの向こうに座る男。

竹中康介は書類から顔を上げ、入室した佐伯を真っ直ぐに見据えた。

その視線には、相手の全てを見透かすような鋭さがあった。年齢は五十に近いはずだが、眼光は衰えを知らない。むしろ歳月が研磨したかのように、その鋭さには深みが加わっている。短く刈り上げた髪には白いものが混じり始めていたが、それがかえって威厳を増しているようにも見えた。顔に刻まれた皺の一本一本が、この男が積み重ねてきた時間の重さを物語っている。

広い肩幅と厚い胸板は、スーツの上からでもはっきりと分かった。現役を退いて久しいはずだが、その身体は今なおレスラーのそれだ。椅子に座っているだけで、部屋全体を支配するような存在感がある。

「座りたまえ」

短い言葉だった。

しかし、それだけで佐伯の身体は自然と動いていた。考えるより先に、足が前に出る。促されるままにデスク前の革張りの椅子へ腰を下ろした。

椅子は柔らかく、身体を包み込むように受け止めてくれる。上質な革の匂いが微かに鼻をつく。だが、その座り心地の良さが、かえって居心地の悪さを増幅させていた。自分のような若手が座っていい椅子ではない。場違いだという感覚が、尻の下から這い上がってくる。

郡もこの椅子に座ったのだ。

その事実が、頭の隅をよぎった。三週間前、同じ革の感触を、郡の掌も感じたはずだ。もちろんそこに郡の体温など残っているわけがない。分かっている。だが、そう意識してしまった瞬間から、椅子の感触が妙に生々しく感じられて仕方がなかった。

「緊張しているね」

竹中の声には、責めるような色はなかった。

むしろ観察するような、冷静な響きがある。研究者が試験管の中の反応を見つめるときのような、感情を排した純粋な観察の目。佐伯という若手レスラーが、この状況でどんな反応を見せるのか。それを確認しているかのような眼差しだった。

「そんなことは……」

佐伯は否定しようとした。

ヒールとして、虚勢を張ることには慣れている。リングの上では何度も見せてきた態度だ。しかし、この部屋ではその虚勢がまるで機能しない。言葉が喉の途中で失速し、語尾が消えていく。

「嘘は良くないな」

竹中が静かに言った。

その声は穏やかだが、有無を言わせぬ重みを孕んでいる。鋼の芯を絹で包んだような、そんな声だ。

「君の膝が震えている」

図星だった。

言われて初めて、佐伯は自分の両膝が小刻みに震えていることに気づいた。意識した途端に、震えはさらに大きくなる。隠そうとして両手で膝を押さえようとしたが、その動作自体が震えを認めることになると気づき、中途半端に手が止まった。

佐伯は唇を噛んだ。情けなさが、胸の底にじわりと広がっていく。

竹中は小さく笑みを浮かべた。

嘲笑ではなかった。どこか穏やかで、しかし全てを見透かすような笑みである。長年の経験がもたらす余裕が、その表情の端々に滲んでいる。若手の緊張など、この男にとっては何百回と見てきた光景なのだろう。珍しくもなければ、軽蔑する対象でもない。ただの事実として、静かに受け止めている。

「まあいい。本題に入ろう」

竹中の声が、わずかにトーンを変えた。

雑談の空気が消え、ビジネスの空気に切り替わる。その一言だけで、部屋の温度が一度下がったような錯覚があった。

竹中は右手でデスクの上の書類を一枚取り上げ、佐伯の方へ滑らせた。

紙がデスクの表面をすべる音が、静かな室内に響く。その音は妙に大きく聞こえた。書類は佐伯の目の前でぴたりと止まった。白い紙面に、黒いインクの文字が整然と並んでいる。

「君もネクサスドリーマーズへ行きたまえ」

一瞬、佐伯の思考が停止した。

耳に入ってきた言葉が、意味を成すまでに数秒を要した。脳が処理を拒否しているかのような、奇妙な空白が生まれる。

「……は?」

思わず間の抜けた声が漏れた。

自分でも驚くほど素っ頓狂な響きだった。取締役の前で出すべき声ではないと分かっていたが、制御できなかった。口が勝手に動いていた。

「出向だよ。郡くんと同じくね」

竹中の言葉は明瞭だった。

聞き間違いではない。しかし、佐伯の頭はその意味を即座に処理することができずにいる。日本語として理解はできる。一つ一つの単語の意味も分かる。だが、それらが組み合わさって形成する意味が、実感として胸に落ちてこなかった。

予想外だったのだ。

叱責を覚悟していた。謹慎処分も想定していた。最悪の場合、パープルヴァイパーからの除名すら頭をよぎっていた。しかし、出向という選択肢は一度も考えたことがなかった。しかもよりによって、ネクサスドリーマーズ。郡がいる場所。

「な、なんで俺が……」

ようやく絞り出した言葉は、かすれていた。

喉が干上がったように渇いている。声がうまく出ない。舌が口の中で引っかかり、滑らかに動かなかった。

「理由は二つある」

竹中は姿勢を変えずに言った。

右手の指を一本立てる。その動作は自然で、しかし無駄がない。

「一つは、郡くんからの推薦だ」

「新さんから?」

佐伯の声が裏返った。

椅子の上で身体が前のめりになる。無意識の動作だった。自分が今どんな顔をしているか、佐伯には分からなかったが、おそらく滑稽なほど驚いた表情をしているだろう。

耳を疑った。もう一度、同じ言葉を聞かせてほしいと思った。しかし、竹中の表情は真剣そのものだ。冗談を言うような場面ではないし、そもそもこの男が冗談を口にする姿は想像できない。

「そうだ。ネクドリでタッグを組みたい選手として、彼は君の名前を挙げた」

佐伯の胸が大きく波打った。

心臓が跳ね上がり、息が詰まる。肋骨の内側で暴れる鼓動が、全身に振動を伝えていた。

あの日。

「僕たちは恋人関係などではありません」と、冷たく突き放した郡。扉を閉め、振り返りもしなかった郡。「いずれ分かりますよ」という言葉だけを残し、真っ直ぐな背中を見せて歩き去った郡。

その男が、自分を推薦したというのか。

タッグを組みたいと、自分の名前を口にしたというのか。

あの背中は、佐伯を切り捨てたのではなかったのか。

頭の中が激しく混乱していた。三週間かけて固めてきた認識が、たった一言で根底から揺さぶられている。怒りと困惑と、認めたくない喜びが同時に押し寄せてきて、どの感情に従えばいいのか分からなくなっていた。

「もう一つは」

竹中の目が鋭くなった。

先ほどまでの穏やかさが消え、覇王と呼ばれた男の眼光がそこにあった。リング上で対戦相手を睨みつけるときの、あの目だ。逃げ場のない、問答無用の威圧感。佐伯の背中を、冷たいものが走り抜けていく。

「今の君を、このままWWEPに置いておくわけにはいかないからだ」

その声は静かだったが、刃のように鋭い。

「それは……」

「最近の君の様子は報告を受けている」

竹中の言葉が、容赦なく佐伯の胸に突き刺さった。

一つ一つ、正確に。まるで釘を打ち込むように、確実に急所を捉えてくる。

「練習中の態度。先輩に対する必要以上の攻撃。周囲との軋轢。チーム内での孤立。全て把握している」

反論の余地がなかった。

何一つとして否定できない。全てが事実であり、全てが自分の招いた結果だ。分かっていた。ずっと分かっていたのに、止められなかったのだ。

「このまま放置すれば、君は自分自身を壊すことになる。あるいは、他の誰かを壊す」

その一言が、佐伯の胸の奥深くに沈んだ。

他の誰かを壊す。今日のスパーリングで、先輩の顔を歪ませた自分の姿が脳裏に浮かぶ。あのまま続けていたら、いつか本当に取り返しのつかないことになっていたかもしれない。その可能性を突きつけられて、佐伯は初めて自分の行為の重さを正面から受け止めた。

佐伯は俯いた。

竹中の目を見ていられなかった。視線を落とした先にあるのは、デスクの上で止まったままの書類だ。白い紙面の上の黒い文字が、佐伯の視界でぼんやりと揺れている。

「環境を変えることで見えてくるものがある」

竹中の声が、少しだけ柔らかくなった。

叱責の刃を収め、先達としての言葉を選んでいるようだった。

「郡くんがそうであるようにね」

その名前が出るたびに、佐伯の心臓が反応する。不随意に、勝手に。自分の意思とは関係なく、郡の名前は佐伯の身体に直接作用した。

「ただし、これは命令ではない」

竹中は椅子の背もたれに身体を預けた。

革が軋む小さな音がする。その動作は、話の区切りを示しているようでもあり、佐伯に考える猶予を与えるための間でもあった。

「最終的には君自身が決めることだ。数日考えて、答えを聞かせてくれ」

佐伯は顔を上げた。

目の前の書類を、改めて見つめる。ネクサスドリーマーズの名前が、黒いインクではっきりと印刷されていた。その文字列が、佐伯の目に焼きつく。

郡がいる場所だ。

あの日から三週間、佐伯を苛立たせ続けてきた原因がいる場所。拳を振るうたびに脳裏に浮かんだ背中の持ち主がいる場所。会いたいのか会いたくないのかすら分からないまま、ただ名前だけが頭の中をぐるぐると回り続けていた、あの男がいる場所だ。

その場所に、自分も行くのか。

郡に会えるのか。

いや、会ってどうする。会って何を言う。推薦してくれたことへの礼か。何も言わずに行ったことへの怒りか。それとも、もっと別の何かか。

何も決まっていなかった。何も分からない。

ただ、胸の奥で何かが疼いている。三週間ずっと蓋をしてきた何かが、竹中の言葉によって揺り起こされ、蓋の裏側からこつこつと叩いているような感覚があった。

「……一つ聞いていいすか」

佐伯は口を開いた。

自分でも意外なほど、落ち着いた声だった。さっきまでの上擦った声とは違う。腹の底から出た、低い声。

「何かな」

「新さん……郡さんは、本当に俺を推薦したんすか」

その問いだけは、どうしても確認せずにはいられなかった。

出向の是非も、自分の今後も、今この瞬間は関係ない。ただ一つ、その事実だけを確かめたかった。郡が本当に自分の名前を口にしたのかどうか。竹中に対して、佐伯瑛太という名前を、あの男が自分の意志で告げたのかどうか。

それだけが知りたかった。

竹中は静かに頷いた。

その動作には迷いがない。

「彼の口から直接、君の名前を聞いた。間違いないよ」

その言葉を聞いた瞬間、佐伯の中で様々な感情が渦を巻いた。

怒りがあった。なぜ何も言わずに行ったのかという怒り。あれだけ冷たく突き放しておいて、裏では自分を推薦していたのか。それならなぜ、あの日あんな態度を取ったのだ。一言でいい。一言だけでも、自分に伝えてくれればよかったのだ。

困惑があった。なぜ自分なのかという困惑。郡の考えていることが分からない。いつだって分からなかった。そしてまた今も、分からないまま振り回されている。

そして、奥の奥に、小さな喜びがあった。

認めたくない。認めたくないが、確かにそこにある。郡は自分を見ていた。タッグを組みたいと、自分の名前を選んでくれた。パープルヴァイパーの中で、他の誰でもなく佐伯瑛太を。その事実が、胸の奥で静かに、しかし確かな熱を持って灯っている。

どれが本当の自分の気持ちなのか、佐伯には分からなかった。

全部が本当なのかもしれない。怒りも困惑も喜びも、全てが同時に存在している。矛盾しているように見えて、そのどれもが嘘ではない。それが余計に佐伯を混乱させていた。

「……分かりました。考えさせてください」

佐伯は立ち上がった。

膝の震えは、いつの間にか止まっている。代わりに、全身に妙な力が入っていた。緊張とは違う。怒りとも違う。名前のつかない何かが、身体の芯に満ちている。

一礼をして、退室しようとドアへ向かった。

黒檀の扉に手をかけようとしたとき、背中に声がかかる。

「佐伯くん」

竹中の低い声だった。

「はい」

佐伯は振り返った。

竹中の目は真剣だった。

先ほどまでの覇王としての威圧でも、取締役としての事務的な眼差しでもない。一人の先達として、若い人間に伝えるべきことを伝えようとする目がそこにあった。長年この世界を生き抜いてきた者だけが持つ、深い経験に裏打ちされた眼差しだ。

「郡くんを追いかけるためだけに行くのなら、やめておいた方がいい」

佐伯は息を呑んだ。

心臓を直接掴まれたような感覚が走る。自分でさえ明確に意識していなかった感情を、竹中は正確に言い当てていた。あるいは、佐伯が自覚することを避けていた感情を、言葉にして突きつけたのかもしれない。

「自分自身のために行きなさい。そうでなければ、君は成長できない」

その言葉が、佐伯の胸に深く沈んでいく。

石が水底に落ちていくように、ゆっくりと、しかし確実に。沈みきった先で何かにぶつかり、鈍い波紋を広げた。

返事をすることができなかった。何を言えばいいのか分からなかった。肯定も否定も、今の佐伯には選べない。ただ黙って頭を下げるのが、精一杯だった。

佐伯は取締役オフィスを後にした。

重厚な扉が背後で閉まる。低い音が静かな廊下に反響し、やがて消えていく。

佐伯は扉の前で立ち止まった。

一歩も動けなかった。

厚手のカーペットの上に立ち尽くしたまま、暖色の間接照明に照らされた廊下を見つめている。さっきは気づかなかったが、廊下の突き当たりの窓から、夕暮れの空が見えていた。紫がかった空に、ビルの影が黒く浮かんでいる。

郡を追いかけるために行くのか。

自分自身のために行くのか。

その問いの答えは、まだ見つからない。

だが、一つだけ確かなことがあった。

郡新は、自分の名前を呼んだのだ。

あの寡黙な男が、竹中康介の前で、佐伯瑛太という名前を口にした。その事実だけが、混沌とした感情の海の中で、唯一の確かな地面のように佐伯の足元を支えていた。

佐伯は深く息を吸い込んだ。

冬の夕暮れの光が、廊下の窓から細く差し込んでいる。その光は佐伯の足元には届かず、数歩先のカーペットの上に、薄い橙色の帯を描いているだけだった。

光のある場所まで、あと数歩。

佐伯は、まだ動けずにいた。

第四話 密談

ネクサスドリーマーズ本社ビル、三階会議室。

照明は意図的に落とされていた。

天井の蛍光灯は六本あるうちの三本しか点いておらず、窓のブラインドも固く閉じられている。外の光が遮断された空間には、重苦しい空気が淀んでいた。会議室というよりも、何か後ろ暗い取引のために用意された密室のような趣がある。

壁に掛けられた時計の秒針だけが、規則正しく時を刻んでいた。

カチ、カチ、カチ。

その音すらも、この場では異様に大きく響く。沈黙が深ければ深いほど、秒針の音は鋭さを増していった。

長テーブルの上座には、ネクサスドリーマーズの運営スタッフが数名着席している。いずれもスーツ姿の中年男性たちで、表情には一様に緊張の色が見て取れた。手元の書類に視線を落としながら、誰も口を開こうとしない。言葉を発することで、この場の均衡を崩してしまうことを恐れているかのようだった。

ペンを弄る指先が落ち着きなく動いている者。書類のページを意味もなくめくり続けている者。水差しに手を伸ばしかけて、途中でやめた者。それぞれが自分なりの方法で緊張をやり過ごそうとしているが、どれもうまくいっていない。

この沈黙を支配しているのは、下座側に座る一人の男だった。

カイザー金岩。

「破壊の帝王」の異名を持つ、ヒール軍のボス。

身長百八十六センチ、体重百七キロ。その肉体は、仕立ての良いダークグレーのスーツを着ていてもなお、威圧感を隠しきれていなかった。広い肩幅が椅子の背もたれを左右に覆い、太い首がネクタイの結び目を堂々と支えている。腕を組んだとき、上腕の筋肉が隆起してスーツの生地を内側から押し上げた。布地の下で、鍛え抜かれた身体が絶え間なく存在を主張し続けている。

顔つきは彫りが深く、眉骨の張り出した鋭い目つきが印象的だった。整えられた短髪には白いものが混じり始めているが、それは老いではなく、むしろ風格として機能していた。顎を覆う無精髭が野性的な雰囲気を添え、全体として近寄りがたい迫力を醸し出している。

口元には常に薄い笑みが浮かんでいたが、それは決して友好の証ではない。獲物を前にした肉食獣のような、冷たい笑みだ。

カイザーは下座に座っている。

本来、下座は立場の低い者が座る位置である。しかしこの会議室においては、その常識は完全に逆転していた。上座に座る運営スタッフたちが緊張に身を縮めているのに対し、下座のカイザーは悠然と腕を組み、椅子の背もたれに深く身体を預けている。権力の所在は座る位置ではなく、人間そのものが決めるのだということを、この光景は雄弁に物語っていた。

「それで、話というのは何だ」

カイザーの声が、沈黙を断ち切った。

低く、どこか挑発的な響きを帯びている。急かしているようでもあり、相手の出方を試しているようでもあった。その声が発せられた瞬間、スタッフたちの間に目に見えない緊張が走る。空気が一段と重みを増し、誰もが無意識に呼吸を浅くした。

スタッフの一人が、意を決したように口を開く。

年配の男だった。白髪交じりの髪を丁寧に整え、銀縁の眼鏡をかけている。この中では最も地位が高いようで、他のスタッフたちも彼の発言を待っていた様子だった。しかしその年配の男ですら、声を発する前に一度小さく咳払いをしなければならなかった。

「ブラックラビリンスの独立ユニット化について、最終確認をしたいのです」

「今さら何を確認する」

カイザーは鼻を鳴らした。

その仕草には、相手を小馬鹿にするような響きが含まれている。声の奥で、嘲りの色が揺れていた。

「もう決まった話だろう」

「ええ、その通りです」

年配のスタッフは姿勢を正した。椅子の上で背筋を伸ばし、できる限り毅然とした態度を保とうとしている。しかし、声にわずかな震えが混じっていることまでは隠せていなかった。

「ただ、あなたが提示された条件について、改めて確認しておきたいのです。書面に残す前に、双方の認識に齟齬がないかどうかを」

カイザーは薄く笑った。

その笑みには、相手を見下す色がはっきりと含まれている。まるで子供の言い訳を聞く大人のような、余裕に満ちた表情だった。余裕があるからこそ笑える。笑えるからこそ、相手との力の差が際立つ。カイザーはそれを知っていて、意図的にやっているのだ。

「条件か。忘れたのか?」

「忘れてはいません」

スタッフの声に、かすかな怯えが混じっていた。それでも職務上、確認せざるを得ないのだろう。唇を引き結び、手元の書類に視線を落としてから、再び顔を上げる。

「WWEPからヒールレスラーを一人、こちらへ派遣してもらう。それがあなたの条件でした」

「そうだ」

カイザーは短く肯定した。

「で、WWEPからの返事は」

「先方から回答がありました」

スタッフは手元の書類に目を落とした。ページをめくる音が、静かな会議室に小さく響く。紙が擦れる乾いた音。それだけの音が、この場の緊張をさらに一段引き上げているようだった。

「派遣候補として挙がっているのは、パープルヴァイパー所属の佐伯瑛太という選手です」

「佐伯瑛太」

カイザーは、その名前を舌の上で転がすように繰り返した。

初めて口にする名前を味わうかのような、ゆっくりとした発音だった。一音一音を確かめるように、その名前が低い声で紡ぎ出される。名前の響きから人物を推し量ろうとするかのような、独特の間があった。

「どんな選手だ」

「デビューは昨年です。キャリア一年未満の若手になります」

スタッフは書類を読み上げていく。その声は努めて淡々としていたが、時折カイザーの反応を窺うように視線を上げている。

「打撃と寝技を組み合わせたスタイルで、毒霧や反則技も戦略的に使用するタイプとのことです。いわゆる正統派のヒールという評価を受けています」

「ほう」

カイザーの目に、わずかな興味の光が宿った。

それまで退屈そうに聞いていた姿勢が、ほんの数ミリ前傾する。外から見れば気づかないほどの変化だったが、正面に座るスタッフたちはそれを見逃さなかった。獲物の匂いを嗅ぎつけた肉食獣が、首をもたげる瞬間に似ている。

「ニックネームは『紫毒の若獅子』。若いながらも狡猾なファイトスタイルで注目を集めているようです」

スタッフはページをめくり、さらに詳細を読み上げた。

「試合運びには粗さが残るものの、観客を挑発する技術や、ヒールとしてのセンスには高い評価を受けています。特に観客席への煽りや、レフェリーの死角を突いた反則技の使い方には、ベテラン顔負けの巧みさがあるとのことです」

スタッフは顔を上げ、カイザーの反応を窺った。

カイザーは顎に手を当て、しばし考え込むような仕草を見せていた。太い指が無精髭を撫で、目は虚空の一点を見つめている。何かを計算している目だった。数手先を読む棋士のように、目の前にはない盤面を見つめているような、そんな目である。

その沈黙は長く感じられたが、実際には数秒のことだったろう。壁の時計の秒針が五つ六つ時を刻んだだけだ。

「……若手か。しかもヒール。悪くない」

その言葉に、スタッフたちの間でかすかな安堵が流れた。

誰もが小さく息を吐く。肩の力が僅かに抜ける。カイザーの機嫌を損ねることなく話を進められそうだという、切実な安堵である。しかし、それは束の間のことだった。

「ただ、一つ懸念があります」

別のスタッフが口を挟んだ。

やや若い男で、四十代前半だろうか。黒縁の眼鏡をかけた知的な風貌をしている。言葉を選びながら話す慎重な性格らしく、発言の前に一拍の間を置いていた。彼が声を上げたことで、ようやく弛みかけた場の空気が再び張り詰める。

「何だ」

カイザーの視線が、その男に向けられた。

射すくめるような眼光だった。若いスタッフは一瞬たじろぎ、眼鏡の奥の瞳がわずかに揺れた。喉仏が上下し、手元の書類を握る指に力が入る。それでも話を続けなければならない立場なのだろう。唾を飲み込み、意を決したように口を開いた。

「この佐伯という選手ですが、先にネクドリへ出向している郡新と因縁があるようなのです」

「因縁?」

カイザーが片眉を上げた。

「はい。詳細は不明ですが、WWEPのパープルヴァイパーで同じチームに所属しており、何らかの深い関係があったと聞いています」

スタッフは手元の資料に目を落とし、補足情報を探した。ページの間に挟まれた付箋を指でたどり、該当する箇所を見つける。

「実際、郡選手からの推薦という形で、今回の出向話が進んでいるとも聞いています。つまり佐伯選手の出向は、郡選手の希望でもあるということです」

カイザーの目が光った。

暗い会議室の中で、その眼光だけが異様な鮮明さを帯びている。先ほどまでの興味とは明らかに質の異なる輝きだった。獲物を見つけた捕食者のような鋭さであり、同時に、手の中に思わぬ札が転がり込んできたことに気づいた勝負師の目でもある。

瞳の奥で、何かが動き始めていた。

歯車が噛み合い、回転を始める音が聞こえそうなほど、その変化ははっきりとしていた。計算が走っているのだ。いくつもの可能性を同時に検討し、最も有利な筋道を見つけ出そうとする、冷徹な計算が。

「郡新」

カイザーはその名前を呟いた。

味わうように、確認するように。

「WWEPから来た選手か」

「はい。現在、郡選手はアウトドアーズの面々と良好な関係を築いているようです」

年配のスタッフが、若いスタッフの説明を引き継いだ。話の流れを自分のところに戻すことで、場の主導権を少しでも取り戻そうとしているのかもしれない。

「特に習志野選手とは学生時代からの付き合いがあったようで、アウトドアーズの道場で一緒にトレーニングしているという報告を受けています。タッグを組む申請も上がってきていますね」

カイザーは低く笑った。

声というよりも、喉の奥から漏れ出す振動のような笑いだった。腹の底から湧き上がる暗い愉悦が、形を成して空気に溶け出していく。その笑いを聞いたスタッフたちの背中を、目に見えない冷気が撫でた。

「面白いじゃないか」

笑いを収め、カイザーはそう言った。

「面白い、とは?」

スタッフの一人が恐る恐る問い返す。声は小さく、地雷原を歩く兵士のような慎重さだった。

「考えてもみろ」

カイザーは腕を組み直し、椅子の背もたれに身体を深く預けた。革張りの椅子がきしみ、その音が静かな会議室に響く。

彼の姿勢は、まるで教壇に立つ教師のようでもあった。あるいは、玉座に座る王のようでもある。これから語ることは講義であり、同時に勅令でもあるのだと、その態度が告げていた。

「ブラックラビリンスが独立して、若林と永岩がヒール軍から抜けた。表向き、ウチは戦力ダウンだ。それが世間の見方だろう。だが、実際はどうだ」

誰も答えない。

答えを求められているわけではないことは、全員が理解していた。これはカイザーの独演であり、スタッフたちはただ聞いていればいい。いや、聞いていなければならない。一言一句、漏らさずに。

カイザーは右手の指を折り始めた。

「若林は野心家だ。あいつは自分がボスになりたいタイプの人間でな。従順なふりをしながら、機会を窺っていた」

人差し指が折れる。

「いずれ俺に牙を剥く。そうなる前に手を打つ必要があった。俺にはそれが見えていた」

中指が折れる。

「永岩も若林に同調する動きを見せていた。二人で何かを企んでいたのは明らかだった。つまり、不穏分子だ。放置すればヒール軍の内部から瓦解する危険があった」

スタッフたちは黙って聞いている。

反論する者などいるはずもなかった。そもそも反論する材料を持ち合わせていない。カイザーの観察眼は業界でも定評があり、人を見る目に関しては誰もが一目置いている。彼が「見えていた」と言うのなら、それは事実なのだろう。

「そいつらを『独立』という体裁で追い出せた。しかも、連中自身が望んだ形でな」

カイザーの口元が歪む。

満足げな、それでいて冷酷な笑みだった。勝者だけが浮かべることを許される笑みである。

「恨みを買うこともなく、円満に縁を切れた。追い出したのではなく、連中が自ら出て行ったという形になる。俺は何も悪くない。むしろ、独立を認めてやった寛大なボスということになるわけだ」

そこで一拍、間を置いた。スタッフたちの表情を一人ずつ確認するような視線を巡らせてから、カイザーは続ける。

「代わりに、WWEPから若いヒールが一人来る」

声のトーンが変わった。先ほどまでの回顧から、未来への布石へ。カイザーの意識が切り替わったことが、声の響きだけで伝わってくる。

「しかもそいつは、アウトドアーズ寄りの郡と因縁がある。郡はWWEP出向組としてネクドリに来ている。つまり、俺の影響圏内にWWEP勢が二人入ることになる」

スタッフたちが再び顔を見合わせた。

今度は先ほどとは違う意味の視線が交わされている。困惑が理解に変わり、理解が驚きに、驚きが畏怖に変わっていく過程が、彼らの表情の上で透けて見えた。

「郡はアウトドアーズと行動を共にしている」

カイザーは右手の人差し指を立てた。

「そしてアウトドアーズは、俺たちヒール軍と同盟関係にある。となれば、郡は自然と俺たちとも接点を持つことになる。望むと望まざるとにかかわらず、だ」

人差し指が、ゆっくりと下ろされる。

「一方、佐伯は直接ヒール軍に入る。郡との因縁があるなら、接触の機会も自然と生まれるだろう」

カイザーの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。

「友好的な接触か、敵対的な接触か。どちらでも構わない。どちらに転んでも、俺にとって損はない構図だ。二人が手を組めばヒール軍の戦力が上がる。二人が対立すれば、観客が盛り上がる因縁の抗争劇になる」

会議室の空気が、さらに重くなったように感じられた。

スタッフたちは、カイザーが描いている絵図の広さに圧倒されていた。目の前で展開されているのは、若手レスラー一人の出向話などではない。これは政治であり、戦略であり、支配のための布石なのだ。一つ一つの手が、もっと大きな盤面の上で意味を持っている。

カイザーは満足げに頷いた。

自分の説明に対する自己評価というよりも、この状況そのものへの手応えだろう。自分が描いた構図が、想定通りに形を成しつつあることへの確かな手応えが、その表情に表れている。

「それに、WWEPに『貸し』を作れる」

「貸し、ですか」

若いスタッフが首を傾げた。

「ああ。若手を預かるということは、育成の責任を負うということだ」

カイザーは立ち上がった。

椅子を引く音が、静かな会議室に鋭く響く。座っているときですら圧倒的だった存在感が、立ち上がることでさらに膨れ上がった。百八十六センチの巨躯が、薄暗い照明の中でひときわ大きく見える。見上げる形になったスタッフたちの視線を、カイザーは悠然と受け止めていた。

「WWEPの期待の若手を、こちらで鍛え上げてやる。育ててやった、預かってやった、という事実は重い。これは将来、必ず回収できる」

「回収、ですか」

スタッフの声には、まだ理解が追いついていない響きがあった。

「ああ」

カイザーはゆっくりと歩き始めた。

会議室の中を、まるで自分の城の中を巡回するかのように歩く。その足音は重く、床板を踏みしめる音が一歩ごとに規則正しく響いた。スタッフたちの背後を通り過ぎるとき、彼らの肩が無意識にすくむ。

「いずれWWEPとの合同興行が組まれる日が来る。業界再編の話が持ち上がるかもしれん。タイトルマッチの調整が必要になることもあるだろう。その時、この『貸し』が生きてくる」

カイザーは窓際で足を止めた。

ブラインドの隙間から漏れる細い光が、彼の横顔を一筋だけ照らしている。光の線が頬骨の上を走り、鋭い目元に影を落としていた。その表情は、目の前の会議室ではなく、もっと遠い場所を見つめているようだった。この部屋の壁の向こう、この建物の外、この業界の未来の先を。

「竹中も無視はできんだろう。あの男は義理堅い。貸しを作れば、返さずにはいられない性分だ」

スタッフたちは息を呑んでいた。

カイザーが描いている構想の射程の長さに、声を失っているのだ。目の前の出向話は、もっと大きな計画の一片に過ぎなかった。カイザーは今日の一手を打つために、何年も先の盤面を見据えている。その視野の広さは、単なるプロレスラーのものではない。経営者であり、策士であり、そして支配者のものだった。

カイザーは窓際から振り返った。

スーツの袖を軽く整える。その仕草は何気ないものだったが、会議の結論が出たことを示す合図のようにも見えた。

「佐伯瑛太を受け入れる。WWEPにそう伝えろ」

それは命令だった。

有無を言わさぬ、絶対的な命令である。討議の余地はなく、修正の余地もない。カイザー金岩がそう決めた。それで全てが決定する。

スタッフたちは一様に頷き、書類にメモを取り始めた。ペンが紙の上を走る音が、複数重なって小さなざわめきを生む。先ほどまでの沈黙が嘘のように、にわかに会議室が動き出していた。

カイザーは出口へと歩き始めた。

その足取りには、自分の領土を闊歩する帝王の風格があった。揺るぎない自信に満ちた歩み。背筋は真っ直ぐに伸び、一歩一歩が確固たる意志を刻んでいる。

扉に手をかけたところで、カイザーはふと足を止めた。

振り返りもせず、背中を向けたまま言葉を付け加える。

「そうだ」

スタッフたちのペンが止まった。全員の視線が、カイザーの広い背中に集中する。

「佐伯が来たら、ヒール軍で引き取る。それでいいな?」

疑問形ではあったが、否という返答を想定した声ではなかった。

「承知しました」

年配のスタッフが答える。他に言葉はなかった。

カイザーは会議室を出ていった。

重厚な扉が閉まり、その足音が廊下の奥へと遠ざかっていく。足音が一歩ごとに小さくなり、やがて完全に消えた。

残されたスタッフたちは、しばらくの間動けなかった。

椅子に座ったまま、互いの顔を見合わせる。誰かが深い溜息をつき、その音が沈黙を破った。もう一人が溜息を重ね、また一人が重ねる。まるで呼吸の仕方を思い出したかのように、彼らは順番に息を吐き出していった。

カイザーが座っていた下座の椅子には、誰も近づこうとしない。そこにはまだ、あの男の重力が残っているようだった。見えない力が椅子の周囲に漂い、近づく者を拒んでいるかのようである。

「破壊の帝王」の異名は、伊達ではない。

その事実を、スタッフたちは骨の髄まで思い知らされていた。あの男が破壊するのは、リング上の対戦相手だけではない。交渉の場における相手の心理をも、容赦なく打ち砕くのだ。

年配のスタッフが、ようやく口を開いた。

眼鏡を外し、目頭を指で押さえてから、静かに言う。

「WWEPへの返答書を作成しよう。すぐに」

他のスタッフたちも頷き、重い腰を上げ始めた。

彼らに選択肢などなかった。カイザー金岩の意思は、この組織においては絶対である。それに従うことだけが、彼らに許された唯一の道だった。

会議室の照明は、相変わらず薄暗く室内を照らしている。

壁の時計が、変わらぬ調子で時を刻み続けていた。

カチ、カチ、カチ。

その秒針の音だけが、空になった下座の椅子の傍らで、淡々と響いている。

第五話 空席の控室

カイザー金岩が控室の扉を開けると、室内にいた天神剛輝が顔を上げた。

控室は広い空間だったが、今はどこか閑散とした印象を与えている。蛍光灯の白い光が隅々まで届いているはずなのに、妙に薄暗く感じられた。空気そのものが希薄になったような、そんな錯覚すら覚える。

かつてはもっと多くの人間がここにいた。

ロッカーの前で着替える者、ソファで戦略を練る者、壁際で軽いストレッチをする者。それぞれが思い思いに過ごしながらも、一つの集団としての熱気がこの部屋を満たしていたはずだ。誰かが冗談を言えば笑い声が上がり、試合前には緊張と興奮が入り混じった独特の空気が漂っていた。

しかし今、その熱気は明らかに薄れている。

ブラックラビリンスの離脱後、ヒール軍は実質三人体制に縮小していた。広すぎる控室の中で、残されたメンバーたちはどこか所在なさげに見える。使われなくなったロッカーが、かつての仲間の不在を静かに主張していた。若林が使っていたロッカー、永岩が使っていたロッカー。それらは今、空っぽのまま扉を閉ざしている。

あの二人がヒール軍にいたのは、ほんの短い期間に過ぎなかった。

加入して、掻き回して、勝手に離れていった。残ったのは、以前よりも少なくなった人数と、以前よりも冷えた控室だけだ。

天神は壁際のベンチに座っていた。

その目は鋭いが、今は疲労よりも苛立ちの色が濃く滲んでいる。膝の上で組んだ両手の指が、無意識に力を込めて白くなっていた。

「話はついたんですか」

天神が尋ねた。

声には平静を装おうとする意志があったが、完全には成功していない。語尾がわずかに尖っている。カイザーが運営側と何を話し合っていたのか、天神には大体の見当がついているはずである。それでも訊かずにはいられなかった。それが部下としての礼儀であり、同時に、ここしばらく溜まり続けた鬱屈の表れでもある。

「ああ。WWEPから新人が一人来る」

カイザーは淡々と答えながら、部屋の奥にあるソファへと向かった。

その足取りは堂々としていて、迷いがない。控室を横切る間も、カイザーの存在感は圧倒的だった。部屋の空気が、彼を中心に渦を巻いているようにすら感じられる。

「新人?」

天神の声が、露骨に低くなった。

「使えるんすか、そんなの」

隠す気もない苛立ちが、その語気に乗っている。若林と永岩という、曲がりなりにもベテランの戦力が二人抜けた。その穴を新人一人で埋めるという。単純な算数としても合わない。だが天神の怒りは、数の問題だけに起因するものではなかった。

永岩と若林がヒール軍に加入したとき、天神はNo.2の座を奪われている。

それまでカイザーの右腕として積み上げてきたものを、後から入ってきた先輩という肩書きだけで踏みにじられた。天神より年上で、キャリアも長い。ただそれだけの理由で、天神が守り抜いてきたポジションは簡単に明け渡された。

屈辱だった。

しかも、その時期は天神個人としても苦しい時間が続いていた。試合での不調が重なり、勝ち星を拾えない日々が続く。一方で、天神が長年ライバルと認める西畑はベビーフェイスとして観客の声援を集め、タイトル戦線に絡み、着実に階段を上っていた。自分が足踏みしている間に、西畑だけが遠くなっていく。その焦燥は、天神の胸を日々焦がし続けていた。

そんな中で、永岩と若林は加入して早々にヒール軍を離れた。

好き勝手に暴れて、ブラックラビリンスなどという新ユニットを立ち上げ、独立していったのである。天神にとっては、自分のポジションを奪っておきながら、用が済んだら捨てていったようなものだ。

そして何より許せなかったのは、タッグマッチでの一件だった。

若林との直接対決。天神は、奪われたものを取り返す気概で臨んだ。しかし結果は惨敗だった。若林の圧倒的なパワーの前に、天神は為す術なく叩きのめされた。マットに沈んだ天神の耳に届いたのは、観客の歓声ですらなく、自分の荒い呼吸音だけだった。

あの夜、天神は控室で一人、拳を壁に叩きつけた。

拳の皮が裂け、血が滲んでも、怒りは収まらなかった。奪われ、負かされ、挙げ句に捨てられた。その屈辱が骨の髄まで染み込んでいる。

「使えるようにするのが俺たちの仕事だろう」

カイザーはソファに深く腰を下ろした。

革張りの座面が、その重量を受けて軋む。低い音が静かな控室に響く。背もたれに身体を預け、カイザーは天井を見上げた。白い天井には何の装飾もない。ただの無機質な平面が広がっているだけだった。

「新人一人で補填って、舐められてるとしか思えないっすけどね」

天神は吐き捨てるように言った。

普段の天神であれば、カイザーに対してここまで露骨な物言いはしない。しかし今は、感情が理性の枠を超えかけていた。ベンチに座ったまま、その背中は微かに震えている。怒りを抑え込もうとする筋肉の緊張が、全身に張り詰めていた。

「あいつらが勝手に出ていって、残されたこっちは新人のお守りですか。ふざけた話だ」

言葉が、堰を切ったように零れ出す。

天神自身、止められなかった。溜め込んできたものが多すぎた。

しばらくの沈黙が流れた。

カイザーは天井を見つめたまま、何も言わなかった。天神の怒りが部屋の空気を震わせている。蛍光灯の微かな電子音だけが、二人の間を流れていた。

「若林と永岩のことは忘れろ」

天井を見つめたまま、カイザーは言った。

その言葉は唐突だったが、天神が何を考えているかを見透かしたような発言だった。

「忘れろって言われて忘れられるもんじゃないっすよ」

天神が食い下がる。

その目に、暗い炎が揺れていた。

「あいつらは後から来て、俺の場所を奪って、好き勝手やって出ていった。しかも若林には直接やられてる。タッグマッチではいいようにされた」

右手の拳を見つめる。

あの夜、壁を殴って裂いた拳の傷は、もう塞がっていた。だが、あのときの悔しさは傷よりも深く残っている。

「俺はあいつらを許す気はないっす。リングの上でケリをつけたい。まぁ、前の試合で借りは返しましたけど、それで済む問題じゃない。徹底的に潰して、Bラビ自体消してやらないと気が済まねぇ」

その声は低く、重い。

感情的な叫びではなく、腹の底から絞り出すような宣言だった。天神の中で、怒りはすでに明確な意志へと結晶化しつつある。

カイザーは、ようやく天井から視線を外した。

身体を起こし、天神の顔を正面から見据える。その目には、獲物を前にした肉食獣のような光が宿っていた。冷徹でありながら、どこか楽しげでもある。戦いを前にした戦士の目だ。

「いい目をしているな」

カイザーの口元に、薄い笑みが浮かんだ。

「お前のその怒り、正しい。あいつらは最初から俺たちとは違う方向を向いていた。利用できる間だけヒール軍の看板を借りて、用が済んだら独立する。最初からそのつもりだったんだろう」

その言葉には感傷のかけらもなかった。共に戦ってきた仲間に対する言葉とは思えないほど、冷たく乾いている。まるで不要になった道具について語るような、事務的な響きすらある。

「怒りに振り回されるな」

カイザーの声が、一段低くなった。

「怒りは武器になる。だが、制御できなければ自分を切る刃に変わる。お前はそれを分かっているはずだ」

天神は黙った。

図星だった。不調が続いた時期、天神は自分でも持て余すほどの感情に振り回されていた。試合中に冷静さを欠き、不用意な被弾を重ねた。焦りが判断を鈍らせ、判断の鈍りがさらなる焦りを呼ぶ悪循環。西畑との差が開いたのも、その負の連鎖が一因だった。

「ブラックラビリンスとして独立を認めたってことは、リングの上で潰せばいいという単純な話になったということすね」

天神が、少し声のトーンを落として言った。

怒りが消えたわけではない。ただ、カイザーの言葉が、暴走しかけた感情にブレーキをかけていた。

「じゃあ、徹底的にやってやりましょう。あいつらが俺たちを裏切った報いを体に刻んでやる」

「望むところだ」

カイザーの声には、冷たい確信が込められていた。

迷いも躊躇もない。まるで最初からそうなることを見越していたかのような口ぶりである。

「むしろ今回の造反劇は、好都合といえる」

カイザーは身を乗り出した。

「内部の不穏分子として抱えているより、外部の敵として叩き潰す方がやりやすい。身内を処分するのは面倒が多いが、敵を倒すのは俺たちの本業だろう」

天神は黙って聞いている。

反論の言葉を口にする気配はなかった。カイザーの論理を理解し、同時にその先にある自分自身の戦いを見据えているようでもある。

「それに、観客も盛り上がる。元仲間との抗争劇というのはな」

カイザーの笑みが深くなった。

「裏切り、対立、そして決着。プロレスファンが大好きな物語だ。かつての仲間が敵になる。その展開に興奮しない観客はいない」

それは計算高い策士の笑みであり、同時に闘いを楽しむ戦士の笑みでもあった。カイザーにとって、この状況は危機ではなく機会なのだ。逆境を好機に転じるその認識の切り替えが、彼の強さの根幹を成しているのかもしれない。

「天神」

カイザーが名前を呼んだ。

その声には、先ほどまでとは異なる響きがあった。命令でも叱責でもない。信頼を込めた、対等に近い呼びかけだった。

「お前はもう一度、ヒール軍のNo.2だ」

天神の目が、大きく見開かれた。

分かっていたはずだった。永岩と若林が抜けた以上、序列は自動的に元に戻る。頭では理解していた。だが、カイザーの口から直接それを告げられると、意味合いが違ってくる。

「永岩がいた間は、あいつが先輩だという事実を覆すわけにはいかなかった。組織にはルールがある。だが、あいつはもういない」

カイザーは淡々と言った。

「お前が本来いるべき場所に戻っただけの話だ。だから、その場所に相応しい働きをしろ」

天神の喉が動いた。

言葉を飲み込んだのか、感情を飲み込んだのか。しばらくの間を置いて、天神は低い声で答えた。

「……やります」

短い言葉だったが、先ほどまでの苛立ちとは違う熱が籠もっていた。怒りが消えたわけではない。むしろ怒りの質が変わっている。暴発寸前の爆薬から、制御された推進剤へ。天神の中で、何かが切り替わった音がした。

「新人の名前は佐伯瑛太」

話題を切り替えるように、カイザーは続けた。

その声はビジネスライクな響きを帯びている。感情を排した、情報伝達のための声だ。

「WWEPのパープルヴァイパー所属。毒霧や反則技を使うタイプらしい。ニックネームは『紫毒の若獅子』」

「確かにヒール向きっすね」

天神が応じた。

先ほどまで怒りで張り詰めていた声に、わずかだが興味の色が混じっている。新しい仲間の話題は、荒れた海面に投じられた一石のように、微かな波紋を広げていた。

「ああ。だが、WWEPのヒールとネクドリのヒールは違う」

カイザーの目が鋭くなった。

先ほどまでの余裕のある表情が消え、真剣な光がその瞳に宿る。これから話すことが重要だという意思表示だった。

「WWEPは大手だ。ヒールといっても、ある程度の枠内で動いている。客を楽しませるための悪役という側面が強い。お行儀のいいヒールだ。観客に嫌われても、それは演出の範囲内。本気で憎まれることはない」

天神は頷いた。

カイザーの言わんとすることを、彼は身をもって理解している。ネクドリで長年ヒールを務めてきた経験が、その理解を支えていた。

「しかし、うちは違う」

カイザーは続ける。

「ネクドリのヒールは、本気で観客に嫌われなければならない。本気で相手を潰しにいかなければならない。演技ではなく、本物の悪意を見せる。その覚悟がなければ、この世界では生き残れない」

その言葉には、長年の経験に裏打ちされた重みがあった。カイザー自身がその道を歩んできたからこそ語れる言葉であり、同じ道を歩んできた天神だからこそ受け取れる言葉でもある。

「うちのやり方を叩き込む必要がある。WWEPの甘い環境で育った若造を、本物のヒールに鍛え上げる」

カイザーは拳を握りしめた。

大きな拳だった。数え切れないほどの試合で、数え切れないほどの相手を沈めてきた拳。その表面には古い傷跡がいくつも刻まれている。関節が太く、皮膚は硬化していた。戦士の手だ。

「天神、お前にやってもらう仕事がある」

「何すか」

天神が身を乗り出した。

「教育係だ。佐伯を使える駒に育て上げろ」

「俺が、ですか」

天神の声に、驚きの色が混じった。

予想していなかった指名だったのだろう。カイザー自身が直接指導すると思っていたのかもしれない。あるいは、No.2に復帰したばかりの自分に、すぐさまこの役割が回ってくるとは想定していなかったか。

「No.2の仕事だ」

カイザーは立ち上がった。

ソファから離れ、天神の前に歩み寄る。その足取りには威厳があり、同時に信頼を示す重みも含まれていた。

「いつまでも俺の下で動くだけじゃ成長しない。下を育てることで、お前自身も変わる。それが組織というものだ」

天神は黙って聞いていた。

カイザーの言葉を噛みしめるように、ゆっくりと頷く。No.2を奪われ、不調に喘ぎ、若林に叩きのめされた。あの屈辱の日々を経て、再び与えられたポジション。だからこそ、今度は誰にも奪わせない。その場所を守り抜くために、自分自身が強くならなければならないし、チームそのものを強くしなければならない。

「分かりました」

天神の声は、先ほどとはまるで別人のように落ち着いていた。

「俺のやり方で鍛えます。WWEPの温い空気は、初日で叩き出してやりますよ」

その口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。

ヒールの笑みだった。リングの上で幾度となく観客を震え上がらせてきた、天神剛輝本来の顔。怒りは消えていない。だが、もはや暴走する怒りではなかった。明確な目的を持ち、明確な標的を定めた、研ぎ澄まされた刃としての怒りだ。

「期待している」

カイザーは天神の肩を叩いた。

重い手だった。しかし、その重さには励ましの意味が込められている。長年の信頼関係があるからこそ成り立つ、無言のコミュニケーションだ。

「飛田とタッグを組ませるのも考えておけ。タッグ戦もできるように仕込んでおけば、選択肢が広がる」

「了解です」

天神の返事は短い。

だが、その二文字には、No.2としての矜持と、教育係としての覚悟と、いつか若林を叩き潰すという暗い決意が、全て凝縮されていた。

カイザーは満足げに頷いた。

この男なら任せられる。長年の付き合いで培われた信頼が、その確信を支えている。天神は怒りを抱えている。だが、その怒りは正しい方向を向き始めた。正しく怒れる人間は強い。カイザーは、それを知っている。

「新しい時代が始まる」

カイザーは控室を見渡しながら言った。

空いたロッカー、減った人数、薄れた熱気。しかし、その全てを覆すような力強さが、彼の声には宿っている。

「ヒール軍は生まれ変わる。そのための第一歩だ」

その言葉は宣言だった。

壁際のベンチに座る天神は、その宣言を正面から受け止めていた。握りしめた拳の中に、まだ怒りの熱が残っている。若林への屈辱、永岩への憤り、西畑への対抗心。それらは消えていない。消す必要もなかった。

その全てを燃料に変えて、天神剛輝は前に進む。

新たな時代の幕が、静かに上がろうとしていた。

第六話 策士の計算

会議室を出たカイザーは、一人で廊下を歩いていた。

足音が規則正しく響く。革靴の硬い底が床を打つたびに、乾いた音が廊下の壁に跳ね返っていった。広い廊下には他に人の姿はなく、カイザーの存在だけがその空間を満たしている。蛍光灯の光が磨かれた床に反射し、白い輝きの帯を作り出していた。

壁には歴代の名勝負を捉えたポスターが並んでいる。

汗にまみれたレスラーたちの姿。歓声を上げる観客席の波。高く掲げられた王座ベルトの金色。ネクサスドリーマーズの歴史を彩る瞬間の数々が、額縁の中で永遠に輝いていた。

しかしカイザーは、それらに目もくれなかった。

彼の視線は真っ直ぐ前を向いている。ポスターの中の過去に興味はない。カイザーが見ているのは常に先だ。一手先、二手先、三手先。この廊下の突き当たりよりもさらに遠くを、この男の目は捉えている。

歩きながら、脳裏では今回の一連の動きを改めて整理していた。

思考を巡らせるとき、カイザーには歩く癖がある。身体を動かしている方が、頭の回転が良くなる。リングの上で相手の動きを読むように、歩みを進めながら盤面全体を俯瞰するのだ。

ブラックラビリンスの独立。

表向きは、若林と永岩の意向を尊重した形になっている。彼らが独自の道を歩みたいと申し出て、カイザーがそれを快く認めた。メディアにはそう発表され、ファンの間でもそう理解されている。カイザーは寛大なボスであり、部下の成長を喜んで見守る度量の持ち主だと。

しかし実態は違う。

この独立劇は、カイザー自身が仕掛けた布石だった。

若林は野心家だ。

カイザーの足が、わずかに速まった。若林のことを考えると、自然と歩調が変わる。苛立ちではない。むしろ冷静な分析がそうさせるのだ。分析対象としての若林は、無視できない存在だった。

あの男は表面上、従順な態度を見せていた。指示には素直に従い、試合では与えられた役割を忠実にこなす。一見すれば理想的な部下である。だが、カイザーの目はその奥にあるものを見逃さなかった。

若林の目の奥には、常に野望が燃えていた。

控室でカイザーが話しているとき、若林は頷きながらもどこか違う場所を見ていた。試合後のミーティングで戦略を説明する際、その目は従順に聞いているふりをしながら、カイザーの座る椅子を見ていた。あの椅子に座りたい。その欲望を、若林は隠しきれていなかった。

いや、隠しているつもりだったのかもしれない。しかしカイザーの前では、その程度の偽装は透明なガラスと同じだ。長年この世界で生きてきた経験が、人間の本性を見抜く目を養っていた。人が嘘をつくとき、言葉は嘘をつけても身体は正直だ。視線の動き、手の位置、肩の角度。あらゆる場面で、若林は自分の野望を無意識のうちに漏らしていたのだ。

いずれカイザーの座を狙ってくる。

ヒール軍のボスの椅子を奪い取ろうとする日が、必ず来る。確信に近い予感だった。

永岩も問題だった。

あの男自身に大きな野心があるわけではない。しかし若林に引きずられる形で、ヒール軍の内部に小さな派閥を形成しつつあった。二人の間には、カイザー抜きでの連携が生まれていた。控室の隅で二人だけで話し込む姿を、カイザーは何度も目撃している。声は聞こえなかった。だが、声を聞く必要はなかった。二人の表情と距離感だけで十分だ。

それは組織にとって、危険な兆候だった。

放置すれば、内部分裂のリスクが日に日に高まる。公然と反旗を翻されてからでは遅いのだ。組織が二つに割れ、泥沼の内部抗争に発展する。ファンの目の前で、ヒール軍が空中分解する。そんな展開は、カイザーにとって最も避けなければならないシナリオだった。

見苦しい。何より見苦しい。

内輪揉めほど醜いものはない。それはヒール軍の価値を損ない、カイザー金岩の名を汚す。断じて許容できなかった。

ならば、先手を打つ。

追い出す。しかし、ただ追い出すのでは芸がない。「独立」という名誉ある形で送り出す。彼ら自身がそれを望んだという体裁を整える。そうすれば恨みを買うこともなく、円満に縁を切ることができる。

カイザーは若林と永岩に、独立の道をそれとなく示唆した。

さりげなく、しかし確実に。種を蒔くように、一粒ずつ。

食事の席で。

「お前たちほどの力があれば、自分のユニットを持っても十分やっていける」

移動中の車内で。

「いつまでも俺の下にいる必要はない。そろそろ自分の旗を立てたいんじゃないか」

何気ない雑談の中で。

「独立したユニットとして活動するのも、一つの選択肢だろう。俺は止めない」

どの言葉も、直接的な勧告ではなかった。あくまで軽い雑談の一部として、自然な流れの中に紛れ込ませた。しかし若林の耳には、それが響くように設計されていた。野心家の心に火を点けるために、カイザーは言葉を選んだのだ。

あとは、彼らが自分から言い出すのを待つだけだった。

果たして、計算通りに事は運んだ。

若林は独立を申し出てきた。まるで自分で思いついたかのような顔で、堂々と。永岩も当然のように同調する。カイザーは「お前たちの意志を尊重する」と言って、穏やかに送り出した。

完璧な筋書きだった。

脚本を書いたのはカイザーだが、役者たちは自分のアドリブで動いていると信じている。これほど美しい演出はない。

カイザーの唇の端が、わずかに持ち上がった。廊下を歩きながら、誰に見せるでもない笑みを浮かべる。

そしてこの独立劇には、もう一つの仕掛けがある。

代償だ。

ブラックラビリンスの独立を認める代わりに、WWEPからの戦力補充を条件として付けた。ネクドリの運営側にとっても、ヒール軍の弱体化は望ましくない。ヒール軍はネクドリの興行を支える重要な柱の一つだ。ベビーフェイス勢との対立構図がなければ、観客を熱狂させるストーリーは成り立たない。悪役が弱ければ、英雄も輝かない。その戦力が大幅に低下すれば、興行全体の質に響く。

条件を呑まざるを得ない状況を、カイザーは巧みに作り出していた。

運営が断れない要求を、運営が断れないタイミングで突きつける。それがカイザーの交渉術だ。相手に選択肢があるように見せかけて、実際にはこちらの望む答えしか出せない状況に追い込む。会議室でスタッフたちが味わった無力感は、まさにその産物だった。

結果として手に入るのは、若くて扱いやすい新人ヒール。

しかもWWEPという大手団体とのパイプ役にもなり得る人材だ。佐伯がいずれWWEPに戻る日が来れば、カイザーとの繋がりを持ったまま戻ることになる。その繋がりは、将来的に様々な局面で活用できる可能性を秘めていた。

さらに、郡新という存在も計算に入っている。

郡はWWEPからの出向組として、既にネクドリで活動していた。そしてアウトドアーズの面々と良好な関係を築いている。特に習志野とは旧知の仲だという。共に汗を流し、信頼を深めている最中だ。

アウトドアーズはヒール軍と同盟関係にある。

敵対しているわけではない。むしろ利害が一致する場面では協力し合う間柄だ。戸山や田宮とは何度か共闘した経験もある。完全な味方ではないが、敵でもない。その微妙な距離感が、かえって使い勝手が良かった。

つまり郡は、アウトドアーズを通じて間接的にカイザーの影響圏に入ることになる。望むと望まざるとにかかわらず。郡自身がそれを意識しているかどうかは関係ない。盤面の上で、その駒がどの位置にあるかが重要なのだ。

そして佐伯は、郡と因縁がある。

詳細までは掴んでいないが、何らかの深い関係性があることは確かだった。郡が佐伯を推薦したという事実も興味深い。単なるチームメイトを推薦するにしては、わざわざ取締役の竹中に直接名前を挙げるというのは、よほどのことだ。

かつての仲間なのか。ライバルなのか。あるいはそれ以上の何かなのか。

どれであっても構わない。この二人の関係性は、使いようによっては極めて有効なカードになり得る。

廊下の突き当たりにある扉の前で、カイザーは足を止めた。

自室の扉である。

他のレスラーの部屋よりも一回り大きく、黒檀を模した重厚な造りだった。金属のプレートには「カイザー金岩」の名前が端正な書体で刻まれている。ヒール軍のボスとしての地位を示す、数少ない目に見える特権の一つだった。

ポケットから鍵を取り出し、錠前に差し込む。金属が噛み合う小さな音がして、ロックが解除された。

扉を開けながら、カイザーは低く呟いた。

「WWEPは俺に貸しを作った」

誰に聞かせるでもない独白だった。廊下の空気だけが、その言葉を受け取る。

部屋に入る。

室内は広かった。他のレスラーに与えられる控室の倍近い面積がある。窓際には大きなデスクが置かれ、その上には書類がいくつか積まれていた。壁には過去の栄光を刻んだ写真が並んでいる。タイトルベルトを高く掲げるカイザーの雄姿。リング上で対戦相手を沈めた瞬間の一枚。大会場を埋め尽くした観客の前で拳を突き上げる姿。どれもカイザーの輝かしいキャリアの一断面だった。

写真の中のカイザーは、今より若い。髪にはまだ白いものは混じっておらず、顔の皺も浅い。しかし目だけは変わっていなかった。鋭く、冷たく、全てを見透かすような目。あの頃から今に至るまで、その目だけは一度も衰えていない。

窓際に歩み寄り、ブラインドの紐を引いた。

金属の羽根が回転し、外の景色が視界に入ってくる。ネクドリ本部の周辺には、いくつかのビルが立ち並んでいた。冬の夕暮れ時で、空は灰色から紺色へと移り変わろうとしている。沈みゆく太陽の残照が、向かいのビルの窓に反射して橙色の輝きを放っていた。

その光が、カイザーの顔を斜めから照らす。

半分が光に、半分が影に。明暗がくっきりと分かれた横顔で、カイザーは外を見つめていた。

「竹中康介は頭のいい男だ」

窓ガラスに手を置きながら、独り言が続く。

ガラスの冷たさが、掌に伝わってきた。冬の外気に冷やされた窓は、まるで氷の壁のようだ。

竹中康介。WWEPの取締役にして現役王者。カイザーとは直接対戦したことはないが、その名声と実力は十分に承知していた。「覇王」の異名は伊達ではない。リング上の強さだけでなく、策略においても一流の男だという評判は、業界の隅々まで行き渡っている。

「この貸しの意味を、あの男が分かっていないはずがない」

カイザーの指が、ガラスの表面を軽く叩いた。こつ、こつ、と小さな音が規則的に響く。思考のリズムを刻むような、無意識の仕草だった。

「だが、分かっていても呑まざるを得ない状況だった」

カイザーの口元が歪む。

「荒れている若手を処理したかったんだろう。自分のところで爆発されるよりも、俺に預ける形でな。体のいい厄介払いだ。問題児を手放しながら、出向という名目で体裁を整える。竹中らしいやり方だ」

窓ガラスに、カイザー自身の顔が薄く映っている。

夕暮れの光を背景にしたその表情は、どこか楽しげですらあった。獲物を前にした肉食獣の笑み。あるいは盤上に駒を並べ終えた棋士が、初手を指す直前に浮かべる笑み。勝負の空気を楽しんでいる男の顔だ。

「だがな、竹中。厄介払いのつもりで渡した駒が、いずれお前の喉元に突きつけられる日が来るかもしれんぞ」

その言葉は独白だったが、窓の向こうの誰かに語りかけているようにも聞こえた。都心のビル群の遥か先に、WWEPの本社がある。竹中康介がいる場所だ。

カイザーは窓から離れ、部屋の中を見渡した。

デスク。革張りのソファ。壁に掛けられた写真の数々。全てが彼の支配下にある空間だった。この部屋はカイザーの城であり、ここから発せられる指令はヒール軍の全員に及ぶ。小さな王国だが、カイザーにとってはこれが出発点だった。

「いいさ。預かってやる」

カイザーはデスクに歩み寄った。

椅子を引き、腰を下ろす。革張りの座面が、百七キロの体重を受けて深く沈み込んだ。背もたれに身体を預け、天井を一度見上げてから、視線をデスクの上に落とす。

書類がいくつか置かれていたが、今は読む気にならなかった。

代わりに、デスクの引き出しから一枚の名刺を取り出す。先ほど運営スタッフが置いていった佐伯瑛太の資料に添付されていたものだ。WWEP所属、パープルヴァイパー。佐伯瑛太。紫を基調としたデザインの名刺に、そう印字されている。

名刺を指先で弾く。

軽い紙の音がした。

「そして、利子をつけて返してもらう」

カイザーの声は低く、静かだった。

「必ずな」

その言葉は、誰に向けられたものでもなかった。カイザー金岩自身への誓いであり、これから始まる新たな戦局への宣言だ。声には確信が込められており、それは虚勢ではなく、長年の経験と実績に裏打ちされた本物の自信だった。

名刺をデスクの上に置き、カイザーは再び窓の外に目を向けた。

冬の夕暮れが、ゆっくりと夜へ移行しつつある。灰色だった空は紺色に沈み始め、東の空に最初の星が一つだけ瞬いていた。ビルの窓に明かりが灯り始め、街は昼の顔から夜の顔へと、静かに表情を変えていく。

光と闇が入れ替わる時間。

その境目に立つカイザーの横顔は、窓ガラスの上で薄い影絵のように揺れている。背後のデスクランプだけが室内を照らし、カイザーの輪郭を橙色に縁取っていた。

「破壊の帝王」は、次の一手を静かに思い描いている。

佐伯瑛太という新しい駒。天神剛輝の覚醒。飛田との連携。郡新との因縁。アウトドアーズとの同盟。ブラックラビリンスとの対立。WWEPとの駆け引き。

全ての要素がカイザーの頭の中で絡み合い、複雑な模様を描いていく。一本の糸を引けば別の糸が動き、一つの駒を進めれば盤面全体が変わる。その全てを掌握し、操り、自分の望む結末へと導く。

この先に待つ物語の結末がどうなるかは、まだ誰にも分からない。

しかし、カイザー金岩だけは確信していた。

最後に笑うのは自分だと。

そしてその確信は、これまで一度も裏切られたことがない。

窓の外で、最後の夕陽が沈んでいく。

橙色の残光がビルの稜線に飲み込まれ、街は完全に夜の帳に包まれた。カイザーの部屋だけが、デスクランプの灯りでぼんやりと浮かび上がっている。

暗闇の中で、「破壊の帝王」の目だけが光っていた。

冷たく、鋭く、揺るぎなく。

その光が消える日は、まだ遠い。

第七話 王者の思惑

冬の午後の陽光が、大きな窓から斜めに差し込んでいた。

その光は白く澄んでいて、どこか冷たい印象を与える。室内に長い影を落とし、壁際のガラスケースに飾られた歴代の王座ベルトを静かに照らしていた。金色のプレートが光を受けて鈍く輝いている。その輝きは華やかでありながら、どこか厳粛な空気を纏っていた。

WWEP本社最上階、取締役オフィス。

竹中康介は執務デスクに向かい、書類に目を通していた。

デスクの上には複数の書類が整然と並べられている。全てがネクサスドリーマーズとの人事交流に関する契約書類だった。派遣条件を定めた覚書、報酬の配分を示した明細、育成方針に関する申し合わせ事項。そして最も重要な書類である派遣同意書が、他の書類から少しだけ離れた位置に置かれている。

佐伯瑛太の名前が記載された派遣同意書。

その紙面を、竹中は静かに見つめていた。

若手レスラーの人生を左右する書類だ。一枚の紙に過ぎない。だが、そこに込められた意味は重い。署名一つで、一人の若者の進む道が大きく変わる。良い方向へ変わるのか、悪い方向へ変わるのか。それは今この時点では誰にも分からない。分からないからこそ、署名する者の責任は重大だった。

竹中はその責任の重さを、誰よりも理解している。

ペンを手に取った。

万年筆だった。黒い軸に金のペン先を持つ、使い込まれた一本。取締役に就任した日に自ら購入したもので、以来、重要な書類にはこのペンで署名すると決めている。ペン先が紙面に触れ、インクが白い紙の上に黒い線を引き始めた。

流れるような筆跡が、署名欄を埋めていく。

一切の迷いがなかった。長年培われた習慣で、その動作は滑らかに完了した。ペンを紙面から離し、インクが乾くまでの数秒間、竹中はその署名を見つめていた。

自分の名前が、佐伯瑛太の運命と結びついた瞬間である。

署名を終え、竹中は万年筆をペン立てに戻した。

椅子の背もたれに深く身体を預ける。革張りの座面が微かに軋んだ。使い込まれた椅子だった。この椅子に座って、いくつもの重要な決断を下してきた。選手の獲得、放出、移籍、引退。その一つ一つが、誰かの人生を動かす判断だった。今回もその延長線上にある。

天井を見上げた。

白い平面が広がっているだけである。何の装飾もない、無機質な空間。しかし竹中にとって、この天井は思考を整理するための余白だった。何も描かれていないからこそ、そこに様々なものを投影することができる。盤面を広げ、駒を並べ、先の手を読む。

「貸し、か」

独り言が漏れた。

誰に聞かせるわけでもない呟きだったが、その言葉には複雑な感情が込められている。苦笑にも似た、どこか自嘲的な響きがあった。

カイザー金岩という男の狡猾さは、竹中も十分に理解していた。

業界内での評判だけではない。過去に何度か直接言葉を交わした経験からも、あの男の本質は見えている。物腰は堂々としているが、その奥には常に計算が透けていた。笑みの裏で相手の弱みを探り、雑談の最中に情報を引き出し、何気ない一言で揺さぶりをかけてくる。常に先を読み、駒を配置し、盤面を支配しようとする策士。

それがカイザー金岩という男だ。

そしてそれは、竹中自身が最もよく知っている。

なぜなら、あの男とは古い因縁があるからだ。

竹中は椅子から立ち上がり、デスクの引き出しを開けた。

奥の方に、一冊の古いアルバムがしまってある。頻繁に見返すわけではないが、捨てることもできないまま、ずっとこの引き出しの中に眠っていた。

アルバムを開く。

最初のページに貼られているのは、十年ほど前の写真だった。

プロレス団体間の対抗戦。WWEPと、ネクサスドリーマーズの前身にあたる団体との合同興行である。当時はまだネクドリという名前は存在していなかった。前身団体は規模こそWWEPには及ばなかったが、独自の路線で根強いファンを抱えていた。その団体の看板ヒールが、カイザー金岩だった。

写真の中で、リングの上に二人の男が対峙している。

一人は竹中康介。今よりも若く、髪に白いものはまだ混じっていない。しかし目の鋭さは今と変わらなかった。覇王と呼ばれ始めた頃の竹中だ。WWEP王座を初めて戴冠した直後で、まさに全盛期の入り口に立っていた。

もう一人がカイザー金岩。

こちらも今より若いが、あの鋭い目つきは写真の中でも異彩を放っている。周囲のレスラーたちが笑顔やポーズでカメラに応じる中、カイザーだけはどこか冷めた表情を浮かべていた。まるで一人だけ別の世界にいるかのように。対戦相手を睨みつけるあの目で、レンズの向こうの観客を見据えている。

この対抗戦で、竹中とカイザーは初めてリングの上で向かい合った。

覇王対破壊の帝王。

二つの団体の看板選手同士の直接対決は、業界全体の注目を集めた。結果は時間切れの引き分け。三十分フルタイムを戦い抜き、どちらも相手を仕留めきれなかった。

その後、二度の再戦が組まれた。

二戦目は竹中がフォール勝ち。三戦目はカイザーが反則裁定で勝利。通算成績は一勝一敗一分。完全な五分だった。

決着がついていないのだ。

あれから十年。

カイザーは親団体からネクドリに移籍し、ヒール軍のボスとして君臨し続けている。一方の竹中はリング上の活動を減らし、取締役として経営の側に軸足を移した。

二人がリングで再び向かい合う日は、おそらく来ない。

しかし、盤面は変わっても勝負は続いている。リングの上からデスクの上へ。技の応酬から言葉の応酬へ。舞台が変わっただけで、竹中康介とカイザー金岩の対局は今も続いているのだ。

写真のページをめくった。

次のページには、対抗戦後の記念撮影が貼ってある。両団体のレスラーたちがリングの前に並び、カメラに向かってそれぞれのポーズを取っていた。拳を突き上げる若手もいれば、腕を組んで佇むベテランもいる。華やかな一枚だった。

その中で、竹中とカイザーは隣同士に立っている。

握手を交わしている写真だった。二人とも笑みを浮かべているが、その笑みの質は全く異なっている。竹中の笑みは穏やかで、勝負の後の清々しさがある。一方カイザーの笑みは薄く、目が笑っていなかった。握手する手に、必要以上の力が込められていたことを竹中は覚えている。

あの男の握手は、友好の証ではなかった。

次は決着をつけるという宣言だったのだ。

「お前は昔から変わらないな、カイザー」

竹中は写真に向かって呟いた。

もちろん返事はない。写真の中のカイザーは、十年前のあの笑みを浮かべたまま、永遠にそこに留まっている。

「常に先を読み、駒を配置し、盤面を支配しようとする。チェスでも将棋でもない。お前が指しているのは生身の人間だ」

アルバムを閉じた。

引き出しにしまい、静かに閉める。金属の摺動音が小さく響いた。

「だが、俺も同じだ」

竹中の目が細くなった。

「この取引が一方的にお前に有利だと思うなよ」

ブラックラビリンス独立の条件として「ヒールレスラーの派遣」を要求してきた時点で、カイザーの意図は明白だった。WWEPに借りを作らせる。将来の交渉材料にする。単純だが効果的な戦略だ。

竹中がその意図を見抜けないとでも思っているのだろうか。

いや、恐らくカイザーは見抜かれることを織り込んでいる。見抜いた上で、なお呑まざるを得ない状況を作り出す。それがあの男のやり方だ。相手に選択肢があると思わせながら、実際には一つの答えしか選べない局面に追い込む。十年前にリングの上で見せた巧みな試合運びと、本質は何も変わっていなかった。

分かっていても、竹中はこの取引を受け入れた。

理由は一つではない。複数の思惑が絡み合い、最終的にこの判断に至っている。

まず、郡新の成長環境を整える目的があった。

ネクサスドリーマーズは郡のテクニカルなスタイルに適した団体であり、アウトドアーズとの連携も順調に進んでいる。報告によれば、郡は習志野との相性が良く、タッグとしての完成度も日に日に高まっているという。そこに信頼できるパートナーを送り込むことで、郡の活動の幅はさらに広がるはずだった。

郡自身がそれを望んでいることは、佐伯を推薦したという事実から明白だ。

あの冷静な郡が、自ら人の名前を挙げた。それは相当な覚悟があってのことだろう。郡は感情で動くタイプではない。何らかの計算があるはずだし、同時に、計算だけでは説明のつかない何かがあるのかもしれない。あの寡黙な青年の内側で、何が動いているのか。竹中にも正確なところは読み切れなかった。

次に、佐伯瑛太の処遇がある。

最近の佐伯は明らかに精神的な均衡を崩していた。練習中の過剰な攻撃性、周囲との軋轢、先輩への無礼な態度。報告書には、スパーリング中に相手に怪我を負わせかけた事例まで記載されていた。その全てが、郡の出向を起点にして始まっていることは誰の目にも明らかだ。

このままWWEPに置いておけば、佐伯は自分自身を壊しかねない。

あるいは、周囲の誰かを壊す。どちらの結末も、竹中にとっては許容できなかった。環境を変えることで立ち直る可能性に賭ける。それが今回の判断の核心にある。

そしてもう一つ、カイザーとの関係構築という側面も無視できなかった。

ネクドリとWWEPは友好団体だが、その内部には表に出ない駆け引きが常に存在している。興行の日程調整、選手の引き抜き交渉、タイトルマッチの組み方。業界の表舞台では握手を交わしながら、裏では互いの出方を探り合う。それが団体間の関係というものだ。

カイザーに「貸し」を作ることは、裏を返せばカイザーとのパイプを太くすることでもあった。

十年前の因縁がある相手だ。通算成績は五分。決着はついていない。だからこそ、繋がりを維持する意味がある。敵を遠ざけるよりも、手の届く距離に置いておく方が安全な場合がある。カイザーの動きを近くで見ていられるという利点は、貸しの代償として十分に釣り合うものだった。

竹中は窓際に歩み寄った。

東京の街並みが、眼下に広がっている。

高層ビルが林立し、その間を縫うように道路が走っていた。冬の午後の街は灰色がかった光に包まれている。車の流れは途切れることなく、歩道を行き交う人々は小さな点のように見えた。空は薄い雲に覆われ、太陽の光を拡散させている。

遠くには東京タワーのシルエットが霞んでいた。この高さから見ると、あの赤い鉄塔も街並みの一部に溶け込んで見える。

「郡新。佐伯瑛太」

二人の名前を、竹中は静かに口にした。

それぞれの顔を思い浮かべる。

冷静沈着な郡と、感情の制御が利かなくなっている佐伯。対照的な二人だった。水と油のようにも見えるし、磁石のS極とN極のようにも見える。反発するのか、引き合うのか。あるいは、その両方が同時に起こるのか。

しかし、どこかで通じ合うものがあるのだろう。

でなければ、あの郡が佐伯の名前を口にするはずがなかった。郡は無駄なことをしない男だ。推薦するからには、それだけの理由がある。その理由が何であるかを、竹中は完全には把握していない。だが、把握していないことを不安に思うよりも、郡の判断を信じる方を選んだ。

「お前たちがネクドリで何を得て帰ってくるか」

竹中は窓ガラスに額を近づけた。

冷たいガラスの温度が、額の皮膚に伝わってくる。その冷たさが、思考をさらに研ぎ澄ませた。

「それが全てだ」

窓ガラスに、竹中自身の顔が薄く映っている。

街並みに重なった自分の顔は、王者としての威厳を湛えながらも、どこか物思いに沈んでいるように見えた。その瞳の奥には、冷徹な計算と、わずかな期待の光が共存している。

計算だけなら、カイザーの方が上かもしれない。

あの男は計算のためだけに生きているような人間だ。感情を排し、損得だけで動く。だからこそ隙がなく、だからこそ手強い。

しかし竹中には、計算以外のものがある。

人を育てるということへの信念。若い芽が伸びていく過程を見守り、時に支え、時に突き放すことで、一人前のレスラーに育て上げる。その営みに対する揺るぎない信念が、竹中の判断の根底にはあった。

カイザーにとって佐伯は「駒」だろう。

しかし竹中にとって、佐伯は「預けた若者」だ。そしていつか必ず、成長した姿で帰ってくると信じている。

その違いが、いずれ盤面に影響を及ぼす日が来るかもしれない。

竹中は窓辺でしばらく立ち尽くしていた。

街を見下ろしながら、これから起こるであろう様々な可能性を頭の中で巡らせている。最良の展開、最悪の展開、そしてその間に広がる無数の分岐点。全てを想定し、全てに備える。それが頂点に立つ者の務めだ。

ふと、十年前のリングを思い出した。

三十分フルタイムの死闘。互いに決め手を欠き、最後のゴングが鳴った瞬間の、あの奇妙な感覚。敗北の悔しさでも、勝利の喜びでもない。もっと複雑な、名前のつかない感情。目の前に立つカイザーも、同じ感情を抱えているように見えた。

あの時交わした視線を、竹中は今でも覚えている。

言葉はなかった。握手もしなかった。ただ互いを見つめ、互いの中に自分と同じ何かを認めた。それだけの瞬間だったが、あの数秒間の沈黙は、どんな言葉よりも雄弁だった。

決着はまだついていない。

リングの上ではもう叶わないかもしれない。しかし勝負は続いている。形を変え、舞台を変え、駒を変えて。

竹中は窓から離れた。

デスクに戻り、署名を終えた書類を丁寧に揃える。角を合わせ、クリアファイルに収めた。このファイルが秘書の手に渡り、ネクサスドリーマーズの運営部門に届けられれば、全てが正式に動き出す。

佐伯瑛太のネクドリ出向が確定する。

カイザー金岩のヒール軍に、WWEPの若手が一人加わる。

竹中はクリアファイルをデスクの端に置き、椅子に座り直した。

万年筆を手に取り、次の書類に目を移す。日常の業務は、一つの決断が終わっても止まることがない。取締役としての仕事は山のようにあった。

しかし、ペンを走らせながらも、竹中の思考の片隅には常にあの盤面が広がっていた。

カイザーが打った手。自分が打ち返した手。そして次に打たれるであろう手。

いずれ来るその日に向けて、覇王は静かに備えている。

冬の午後の陽光が、少しずつ傾きを増していた。デスクの上に落ちる影が、時間の経過とともにゆっくりと伸びていく。ガラスケースの中のベルトが、斜めの光を受けて最後の輝きを放っている。

やがてその光も翳り始め、オフィスは穏やかな薄闇に包まれていった。

竹中はデスクランプを点けた。

暖かい橙色の光が、書類の白さを柔らかく照らす。その光の中で、覇王の万年筆は静かに走り続けていた。

第八話 電話会談

署名を終えた書類をクリアファイルに収め、竹中がデスクの端に置いた直後だった。

電話が鳴った。

低い電子音が、静かなオフィスに響く。規則正しいリズムだが、その音にはどこか急かすような調子が含まれていた。穏やかだった室内の空気が、一瞬で張り詰める。

竹中はデスクに歩み寄り、受話器の横に表示された番号を確認した。

その瞬間、口元にかすかな笑みが浮かんだ。

「早いな」

予想していたよりも早いタイミングだった。書類がネクドリの運営部門に届くのはまだ先のはずである。つまり、正式な書類を待たずして連絡を入れてきたということだ。独自の情報網で、竹中が署名したことを既に掴んでいるのかもしれない。

しかし、驚きはなかった。

カイザーならそうするだろうと、どこかで分かっていた。あの男は常に先手を取りたがる。相手が動く前に自分から動き、主導権を握る。リング上でも、リング外でも。十年前から何も変わっていない。

受話器を取り、耳に当てる。

「竹中だ」

「金岩だ」

電話越しに響く声は、低く重かった。

腹の底から地面を伝って這い上がってくるような、そんな重低音だ。その威圧感は電話回線を通しても一切失われていない。むしろ、顔が見えない分だけ声の圧力が際立っているようにすら感じられた。受話器の向こうに、あの巨躯が存在していることを、声だけで否応なく意識させられる。

「佐伯の件、承認が下りたと聞いた」

書類の話ではなかった。承認そのものの情報を、既に掴んでいる。やはり独自のルートで動いていたか。竹中は内心で舌を巻きながら、表面上は平静を保った。

「ああ。先ほど署名した。問題なければ、来週にも佐伯を送る手筈になる」

竹中は淡々と答えた。ビジネスライクな口調を意識している。感情を見せるつもりはなかった。この男との会話では、声の震え一つ、間の取り方一つが情報になる。

「急ぐな」

カイザーの声が、竹中の言葉を遮った。

その遮り方には遠慮がない。対等以上の立場であることを当然のように示す、堂々とした割り込みだった。電話という媒体の中ですら、カイザーは場の主導権を握ろうとする。

「一つ確認しておきたいことがある」

「聞こう」

竹中は短く応じた。聞こう、という言い方を選んだのは意図的だった。答えるとは言っていない。聞くだけは聞く。その先は内容次第だ。

「佐伯瑛太。こいつは郡新と因縁があるらしいな」

竹中は一瞬、間を置いた。

予想していた質問だった。カイザーがその程度の情報を掴んでいないはずがない。ネクドリの情報網は広く、WWEPの内部事情についてもある程度は把握しているだろう。運営スタッフの中に、カイザーに情報を流している人間がいても不思議ではなかった。

問題は、どこまで正直に答えるかである。

嘘をつくか。はぐらかすか。それとも事実を述べるか。

竹中は受話器を持つ手を、わずかに持ち替えた。左手から右手へ。その数秒の間に、判断を下す。

正直に答えることを選んだ。

下手に隠しても意味がない。カイザーは既に知っているのだ。知っていることを確認するために訊いている。ここで曖昧な返答をすれば、かえって不信感を与えるだけだ。そして不信感は、カイザーのような男の手にかかれば、こちらの弱みとして利用される。

「ああ。佐伯は郡に対して、かなり強い感情を持っているようだ」

「感情、ね」

カイザーの声に、微かな興味の色が混じった。

声のトーンがほんの少しだけ上がっている。獲物の気配を嗅ぎ取った肉食獣が、首をもたげる瞬間のような反応だった。電話越しでも、あの鋭い目が光っているのが見えるような気がする。

「どういう種類の感情だ」

「それは本人たちの問題だ」

竹中は線を引いた。

声に揺らぎはなかった。ここから先は話さない。その明確な意思を、言葉の響きに込める。

「俺が口を挟むことじゃないし、お前に話すことでもない」

一拍の沈黙があった。

電話回線の向こうで、カイザーが何かを測っている気配がする。竹中の言葉の真意を探っているのか、あるいは次の手を考えているのか。

やがて、低い笑い声が受話器から漏れてきた。

喉の奥から搾り出すような、押し殺した笑いだった。愉快だから笑っているのではない。面白い駒を見つけたときの、あの冷たい愉悦が滲んでいる。その笑い声を聞いただけで、背筋に薄い冷気が走った。

「なるほど。まぁいい」

笑いを収めたカイザーの声は、先ほどよりも軽い調子になっていた。しかし、その軽さは油断を誘うための罠にも聞こえる。

「面白そうな組み合わせじゃないか」

「何を考えている、カイザー」

竹中の声が、わずかに鋭くなった。

警戒を隠さない口調だった。穏やかさの仮面を一枚剥がし、その下にある王者の眼光を声に乗せる。カイザーの言葉の裏には、必ず何かがある。十年の付き合いで、それだけは確信している。

「別に何も」

カイザーは軽い調子で答えた。

しかし、その軽さが逆に不穏だった。本当に何も考えていない人間は、わざわざ署名直後に電話をかけてきたりしない。この電話自体が、カイザーの手の一つなのだ。竹中の反応を探り、情報を引き出し、こちらの温度を測る。全てが計算の上に成り立っている。

「ただ、せっかくWWEPから二人もうちに来るんだ。有効活用させてもらうだけだよ」

「有効活用……」

竹中はその言葉を、舌の上で転がすように反芻した。

カイザーにとっての「有効活用」とは何か。答えは一つではないだろう。人材としての活用、政治的な駒としての活用、そしてWWEPとの交渉材料としての活用。複数の意図がその言葉の裏に重なり合っているはずだ。

竹中の目が細くなった。

受話器を握る手に、無意識のうちに力がこもる。万年筆を握るときとは違う、戦う者の握力だった。

「佐伯はヒール軍に配属するつもりか」

「当然だろう」

カイザーの即答だった。

迷いの欠片もない断定的な口調である。この結論は、電話をかける前から決まっていたのだ。確認のために訊いているのではなく、通告として伝えている。

「ヒールレスラーを寄越せと言ったのは俺だ。ベビーフェイス側に入れるわけがない」

「郡はアウトドアーズと組んでいる」

竹中は言った。

それは確認であると同時に、牽制でもあった。郡の配置についてまで口を出すつもりかと、暗に問うている。

「ああ。アウトドアーズは俺たちと同盟関係にある。何か問題があるか?」

問題がないかのように言う。しかし竹中には、その言葉の裏にある構図がはっきりと見えていた。

郡をアウトドアーズ経由で間接的に影響下に置き、佐伯を直接ヒール軍に取り込む。WWEP出向組の二人を、異なる角度から自分の勢力圏に組み込もうとしている。一人は同盟を通じて、もう一人は直属の部下として。網を二重に張るような、巧妙な配置だった。

盤上で駒を一つずつ動かし、気づいたときには包囲網が完成している。カイザーはそういう戦い方をする男だ。リングの上でも、リングの外でも。

「随分と欲張りだな」

竹中の声には、皮肉が滲んでいた。

「褒め言葉として受け取っておく」

カイザーの声には余裕が漂っている。自分の優位を確信している者特有の、揺るぎない自信がそこにはあった。十年前のリングで、時間切れ間際に見せたあの余裕のある表情と同じ種類のものだ。

どんな局面でも、この男は余裕を手放さない。

それが本物の余裕なのか、演技なのか。十年付き合っても、竹中にはまだ判別がつかなかった。おそらく、その判別がつかないこと自体がカイザーの武器なのだろう。

「一つ言っておく、カイザー」

竹中の声が低くなった。

普段の穏やかな口調が消えていた。代わりにそこにあるのは、覇王と呼ばれた男の声だ。リングの上で無数の対戦相手を睨みつけてきた、あの目と同じ温度を持つ声。

「二人はあくまでWWEP所属の派遣選手だ。出向期間が終われば、うちに戻ってくる」

一語一語に力を込める。

「その時、二人が壊れていたら……俺はお前を許さない」

電話越しに一瞬の沈黙が流れた。

空気の質が変わったことが、回線を通しても伝わってくる。竹中の言葉が、カイザーの耳に正確に届いたことは間違いなかった。

やがて、カイザーの笑い声が響いた。

「壊す? とんでもない」

その笑い声には芝居がかった響きがあった。大げさに驚いてみせるような、演技じみた反応だ。だが、その演技の奥に本音が透けていないかどうかは、竹中にも読み切れない。

「俺は育てるんだよ、竹中。特に佐伯は、天神に教育係を任せる。うちの流儀を叩き込んで、一人前のヒールに仕上げてやる」

天神剛輝。ヒール軍のナンバーツー。その名前が出てきたことに、竹中は内心で反応した。カイザーが直接ではなく天神に任せるということは、佐伯をヒール軍の組織の中に深く組み込む意図があるということだ。

「WWEPに戻る頃には、見違えるほど成長しているだろうさ」

「それは脅しか」

「期待と言ってくれ」

カイザーの声に、笑みの気配が混じっている。

「俺の教育には定評がある。天神が何よりの証拠だ」

竹中は受話器を握る手に、さらに力を込めた。

デスクの上で、指の関節が白くなっている。その拳は、感情を抑え込もうとする意志の表れだった。怒りではない。カイザーという男に対する、十年来の対抗心だ。この男に負けるわけにはいかないという、静かだが揺るぎない意志。

「……分かった。だが忘れるな」

竹中は一呼吸置いた。

「貸しは貸しだ。いずれ返してもらう」

「もちろんだ」

カイザーの声が、一段と低くなった。

その低さには、何かを約束するときの重みがあった。あるいは、何かを宣言するときの重みか。

「利子をつけてな」

その最後の一言を残して、通話が切れた。

電子音が短く響き、沈黙が戻ってくる。受話器の中にはもう何の音もない。しかし、カイザーの声の残響が、竹中の耳の奥でまだ振動しているようだった。

竹中はゆっくりと受話器を置いた。

プラスチックの筐体がクレードルに収まる小さな音が、静寂の中で妙にはっきりと響く。

深く息を吐いた。

長い溜息だった。肺の奥に溜まっていた空気を、全て搾り出すような深い呼吸。肩の力が抜け、背中が椅子の背もたれに沈み込んでいく。革が軋む音がした。

「利子、か」

窓の外を見つめながら、竹中は呟いた。

カイザーの最後の言葉が、頭の中で反芻される。「利子をつけてな」。あの男がそう言うとき、それは単なる社交辞令ではない。冗談でもない。言葉通りの意味であり、同時に言葉以上の意味を含んでいる。

利子をつけて返す、とカイザーは言った。

しかし、どちらがどちらに利子を払うことになるのか。それは今後の展開次第だ。カイザーは自分が利子を受け取る側だと確信しているだろう。だが竹中にも、同じ確信がある。

十年前のリングと同じだ。

互いに譲らず、互いに決め手を欠き、互いに勝利を確信しながら戦い続ける。あの三十分フルタイムの死闘と、構図は何も変わっていなかった。舞台がリングからデスクに変わっただけだ。

竹中は椅子の上で姿勢を正した。

背筋を伸ばし、デスクの上の書類に目を戻す。感傷に浸っている暇はない。取締役としての仕事は、一つの電話が終わっても止まることなく続いていく。

だが、万年筆を手に取りながらも、思考の片隅には常にあの盤面が広がっていた。

冬の午後の陽光が、少しずつ傾きを増している。

窓から差し込む光の角度が変わり、デスクの上に落ちる影の形もゆっくりと変化していった。ガラスケースの中の王座ベルトが、斜めになった光を受けて最後の輝きを放っている。

やがてその光も翳り始め、オフィスは穏やかな薄闇に包まれていくだろう。

しかし今はまだ、冬の陽は沈んでいなかった。

竹中の万年筆が、書類の上を静かに走り続けている。覇王の手は止まらない。次の一手を、その先の一手を、常に考えながら。

この勝負の決着がつく日は、まだ遠い。

第九話 決断

佐伯瑛太は再び、あの重厚な扉の前に立っていた。

三日前と同じ廊下。三日前と同じ扉。冬の陽光が窓から差し込み、厚手のカーペットの上に長い影を落としている。暖色系の間接照明も、壁に掛けられた絵画も、三日前と変わらなかった。

しかし、佐伯の心境は三日前とは違う。

この三日間、佐伯は悩み続けた。

眠れない夜があった。ベッドに入っても目が冴えてしまい、天井の闇を見つめたまま朝を迎える。暗い部屋の中で寝返りを打つたびにシーツが擦れる音だけが響き、その音すらも神経に障った。頭の中では様々な考えが渦を巻いている。結論が出ないまま、時間だけが過ぎていった。

練習にも身が入らなかった。

身体は動かしていたが、心はここにない。先輩に声をかけられても上の空で返事をし、サンドバッグを叩いても拳に手応えを感じない。何をしていても意識が別の場所に飛んでいく。あの取締役オフィスでの会話が、繰り返し脳裏に蘇るのだ。

郡新が自分を推薦した。

その事実が、頭から離れなかった。

あの日、「僕たちは恋人関係などではありません」と突き放した郡。冷たい通路で、振り返りもせずに去っていった郡。「いずれ分かりますよ」とだけ残して、真っ直ぐな背中を見せた郡。

なぜ自分を推薦したのか。

追いかけてきてほしいのか。それとも、ただのタッグパートナーとして戦力が必要なだけなのか。あるいは、佐伯の荒れている状況を伝え聞いて、心配しているのか。もしくは、全く別の理由があるのか。

考えても考えても、答えは出なかった。

郡の心の内など、佐伯には分からない。いつも冷静で、感情を表に出さない男だ。言葉は少なく、表情の変化も乏しい。その仮面の下に何が隠されているのか、同じチームで過ごした時間の中でも、佐伯は一度も覗き見ることができなかった。

知りたかった。ずっと知りたかった。

だが、踏み込む勇気がなかったのか。それとも、踏み込んではいけないと感じていたのか。どちらだったのかすら、今の佐伯には分からなくなっている。

竹中の言葉が蘇る。

「郡くんを追いかけるためだけに行くのなら、やめておいた方がいい」

その言葉が、佐伯の胸に棘のように刺さっていた。抜こうとしても抜けない。深く食い込んで、触れるたびに鈍い痛みが走る。しかし無視することもできない。無視しようとすればするほど、その棘の存在が意識に上ってくるのだ。

三日間、佐伯はその棘と向き合い続けた。

向き合って、考えて、また向き合って。その繰り返しの果てに辿り着いた答えが、今の佐伯をこの扉の前に立たせている。

佐伯は拳を握りしめた。

追いかけるためじゃない。

そう自分に言い聞かせる。

俺は俺自身のために行くんだ。強くなるために。新しい環境で、自分を試すために。WWEPでは得られない経験を積むために。ヒールとして、レスラーとして、もう一段上に行くために。

本当にそうなのか。

自分でも、完全には分からなかった。

だが、そう信じることにした。他に前に進む方法が見つからなかったからだ。完璧な答えでなくても、今の自分が出せる精一杯の答えだった。それで十分だと思うことにする。

ノックをした。

拳が扉を打つ乾いた音が、廊下に響く。三日前と同じ動作だ。しかし今回は、拳に込める力が違った。迷いを振り切るように、しっかりと二度叩く。

「入りたまえ」

低い声が返ってくる。三日前と同じ声。同じ重み。同じ威厳。

佐伯は扉を押し開け、中に入った。

取締役オフィスの空気は、三日前と変わらなかった。広い空間、高い天井、窓から差し込む冬の光。壁際のガラスケースには歴代の王座ベルトが飾られ、金色のプレートが静かな輝きを放っている。空気の重さも、部屋の匂いも、三日前のままだ。

そしてデスクの向こうに座る竹中康介の姿。

三日前と同じ場所に、同じ姿勢で座っている。しかし今日の竹中は、佐伯が入室した瞬間から書類ではなく佐伯の顔を見ていた。待っていたのだ。この答えを。

「答えは決まったかな」

竹中の問いかけは単刀直入だった。

無駄な前置きはない。三日前に猶予を与え、今日その答えを聞く。それだけのことだ。シンプルな問いかけの中に、相手を対等に扱う敬意が含まれているように、佐伯には感じられた。

佐伯は真っ直ぐに竹中を見据えた。

心臓が速く打っている。鼓動が耳の奥で響き、掌にはじっとりと汗がにじんでいた。だが、視線だけは逸らさないと決めていた。ここで目を伏せれば、三日間かけて固めた覚悟が崩れてしまう。

「行きます」

一呼吸置いて、続ける。

「ネクサスドリーマーズに、行かせてください」

その言葉は、思ったよりも落ち着いた声で発せられた。

三日間悩み抜いた末の答えだ。声が震えるかもしれないと身構えていたが、意外にも安定していた。覚悟が、言葉に芯を通してくれたのかもしれない。あるいは、三日間の葛藤が声から余分な力を抜いてくれたのか。

竹中は小さく頷いた。

その表情からは、何を考えているのか読み取れなかった。喜んでいるのか、心配しているのか、予想通りだと思っているのか。覇王の仮面は完璧で、感情の欠片も漏らさない。

「理由を聞いてもいいかな」

佐伯は一瞬、言葉に詰まった。

理由。その問いに、何と答えるべきか。三日間かけて用意した答えはある。だが、それが本当に正直な答えなのか、自分でも確信が持てなかった。

しかし、迷っている時間はない。

ここで黙っていては何も伝わらないのだ。完璧でなくてもいい。今の自分が持っている言葉で、伝えるしかない。

「俺は……郡さんを追いかけるために行くんじゃないっす」

口に出した瞬間、その言葉が嘘なのか本当なのか、自分でも分からなくなった。だが、言ってしまった以上は引けない。

「ほう」

竹中の目が、わずかに細くなった。

その反応が何を意味するのか、佐伯には読めなかった。疑っているのか。見透かしているのか。それとも、続きを促しているだけなのか。

「俺自身が強くなるためっす」

佐伯は続けた。言葉を途切れさせたら、そこで立ち止まってしまいそうだった。だから、一気に話す。

「WWEPとは違う環境で、自分の実力を試したい。新しい技術を学びたい。新しい相手と戦って、自分に足りないものを知りたい」

そこで一度言葉を切った。喉が渇いている。唾を飲み込み、最後の一言を絞り出す。

「それだけっす」

半分は本心だった。

新しい環境への渇望は、確かにある。WWEPの中にいるだけでは見えないものがあることも分かっている。自分の力を試したいという欲求も本物だ。

残りの半分は、自分でも分からない。

郡に会いたいという気持ちが、この決断の根底にないと言い切れるだろうか。あの男の顔を見たい、声を聞きたい、なぜ推薦したのかを直接問い質したい。そんな感情が胸の奥に渦巻いていることを、佐伯は否定できなかった。

しかし、それを認めてしまえば竹中の忠告を無視することになる。だから認めない。認めないことにした。自分自身を騙すように、強くなるためだと言い聞かせた。嘘をついているのか、本当のことを言っているのか。その境界線が、佐伯の中で曖昧に揺れている。

竹中は佐伯の目をじっと見つめていた。

その視線は静かだが、全てを見通しているような鋭さがあった。佐伯の言葉の裏にある迷い、葛藤、自分でも認められない感情。その全てを、竹中の目は捉えているような気がする。長年の経験が培った観察眼の前では、若者の虚勢など透明なガラスと変わらないのかもしれない。

佐伯は居心地の悪さを感じ、思わず視線を逸らしそうになった。

目の奥がむず痒くなる。見透かされているという感覚が、皮膚の下を虫が這うように不快だった。

だが、ぎりぎりのところで踏みとどまった。

ここで逸らしてはいけない。逸らせば、自分の言葉が嘘だと認めることになる。たとえ半分が嘘でも、残りの半分は本当なのだ。その本当の部分に全てを賭けて、佐伯は竹中の視線を受け止め続けた。

沈黙が流れた。

長い沈黙だった。壁の時計の秒針が刻む音が、やけに大きく聞こえる。窓から差し込む光の角度が、ほんの僅かだけ変わった。それほどの時間が経っていた。

「……いいだろう」

竹中がそう言った。

その声には、諦めとも容認ともつかない複雑な響きがあった。佐伯の言葉を全面的に信じたわけではないのだろう。見抜いている。半分が嘘で、半分が本当だということを。だが、それでも認めてくれた。

若者が自分なりに出した答えを、頭ごなしに否定することはしない。

それが竹中康介という男の在り方なのかもしれなかった。その事実だけで、佐伯は少しだけ救われた気がする。

竹中はデスクの上から一枚の書類を取り上げ、佐伯の前に差し出した。

「派遣同意書だ。サインしなさい」

白い紙面が、デスクの上を滑って佐伯の前で止まる。三日前に見せられた書類と同じものだ。しかし今回は、その横にペンが添えられていた。黒い軸のボールペン。事務的な一本だが、今の佐伯にとっては、これから先の人生を切り開く刃のようにも見えた。

佐伯はペンを受け取った。

書類には自分の名前が印刷されている。「佐伯瑛太」の四文字が、活字として紙面に並んでいた。署名欄だけが空白のまま、佐伯を待っている。この空白を埋めれば、全てが決まる。後戻りはできなくなる。

ペンを持つ手が、一瞬だけ止まった。

本当にいいのか。

その問いが、最後の抵抗のように頭をよぎる。

しかし佐伯は、すぐにペン先を紙面に下ろした。

迷っている暇はない。もう決めたのだ。三日間かけて、悩んで、苦しんで、眠れない夜を過ごして、それでも出した答えだ。ここで止まったら、あの三日間が無駄になる。

ペンが動く。

手が僅かに震えていた。文字の線が微かに揺れている。美しい署名とは言えなかったが、読めないほどではない。一画一画、自分の名前を刻んでいく。「佐」「伯」「瑛」「太」。四つの文字が署名欄を埋めていった。

最後の一画を書き終えたとき、佐伯は小さく息を吐いた。

終わった。書いてしまった。もう戻れない。

インクが乾くまでの数秒間、佐伯は自分の署名を見つめていた。少し歪んでいる。緊張で力が入りすぎたせいだろう。だが、それでも確かに自分の名前だった。自分の意志で書いた、自分の名前だ。

「一つ伝えておくことがある」

署名を確認した竹中が、静かに口を開いた。

その声は、先ほどまでとは明らかにトーンが変わっている。答えを聞く段階は終わり、これからは具体的な情報を伝達する段階に入った。声に含まれる真剣さが、一段階深くなっていた。

「ネクドリに出向しても、君の所属はWWEPであることに変わりない。これは大前提だ」

佐伯は頷いた。

「だが、君がヒールレスラーであることを考慮して、配属先はヒール軍になる予定だ」

「ヒール軍……」

佐伯の口から、その言葉が漏れた。

ネクドリのヒール軍。名前は知っている。WWEPにいても、その存在は耳に入ってきていた。ネクドリの興行を支える悪役集団。ベビーフェイス勢との対立構図の中核を担うユニット。

「カイザー金岩が上司となるだろう」

竹中が告げた。

「カイザー……金岩」

その名前を、佐伯は舌の上で転がすように反芻した。

知っている名前だった。「破壊の帝王」。ネクサスドリーマーズのヒール軍を率いる男。反則を含めたラフファイトで対戦相手を破壊する、業界屈指の危険人物。WWEPにいても、その異名は何度か耳にしたことがある。

試合映像を見たこともあった。

トレーニングルームの隅にあるモニターで、ネクドリの興行映像を流していたときだ。画面の中のカイザーは、容赦のない攻撃で相手をマットに沈めていた。冷徹な試合運び、相手の弱点を的確に突く観察眼、そしてリング全体を支配する圧倒的な存在感。画面越しでも伝わってくる威圧感は、佐伯が今まで見てきたどのレスラーとも次元が違うものだった。

あの男の下に入るのか。

背中を冷たいものが走った。恐怖とは違う。だが、平静でもいられない。未知の領域に足を踏み入れる前の、本能的な警戒だった。

「郡くんはアウトドアーズと組んでいる」

竹中が続ける。

「同じWWEPの出向組であっても、君たちは別々のユニットに所属することになる」

佐伯の表情が、僅かに曇った。

同じ団体に行っても、一緒にいられるわけではない。頭では分かっていたつもりだった。だが、改めて言葉にされると、胸の奥が締め付けられるような感覚がある。どこかで期待していた自分がいたのだ。ネクドリに行けば郡と同じユニットで活動できるかもしれないと。その淡い期待が、今静かに砕かれていく。

「ただし」

竹中の声に、僅かだが温度が戻った。

「タッグを組む機会は必ずある。それが郡くんの希望であり、先方の要望でもある。そのために君は呼ばれた」

佐伯は息を吸った。

「……分かりました」

声は小さかったが、確かだった。

それだけで十分だ。普段は別々でも、いつかは同じリングに立てる。郡と背中を預け合って戦える日が来る。その可能性があるだけで、胸の中のわだかまりが少しだけ溶けていくのを感じた。

「もう一つ」

竹中の声が、一段低くなった。

先ほどまでの事務的な口調が消えている。代わりにそこにあるのは、一人の先達として若者に伝えるべきことを伝えようとする、真摯な響きだった。

「カイザー金岩には気をつけろ」

その言葉には、明確な警告の意味が込められていた。単なる忠告ではない。あの竹中康介が、声のトーンを変えてまで発する警告だ。軽く受け流していい類のものではなかった。

「あの男は策士だ。君を使える駒に育て上げようとするだろう。それ自体は悪いことではない。技術を学び、経験を積むことは、間違いなく君の成長に繋がる」

竹中は言葉を切り、佐伯の目を正面から見据えた。

覇王の目だった。リング上で無数の対戦相手を睨みつけてきた、あの目。しかしそこに宿っているのは威圧ではなく、年長者が年少者に向ける切実な願いのようなものだった。

「だが、駒で終わるな」

竹中の声が、低く、しかし力強く響く。

「自分自身の意思を持ち続けろ。カイザーの思惑に飲み込まれるな」

一語一語が、佐伯の胸に釘を打つように刻まれていく。

「君は君だ。それだけは忘れるな」

佐伯は黙って頷いた。

言葉にすると安っぽくなりそうだった。だから頷くだけにした。その頷きの中に、自分が込められる全ての重みを詰め込む。竹中にそれが伝わったかどうかは分からない。だが、伝わっていてほしいと思った。

「来週、ネクドリへ向かってもらう。それまでに身辺の整理をしておきなさい」

「はい」

佐伯は立ち上がった。

椅子を引く音が、静かなオフィスに小さく響く。立ち上がった瞬間、膝に力が入らないのを感じた。緊張が長く続いたせいだろう。だが、すぐに持ち直す。

深く頭を下げた。

腰を折り、感謝の意を込める。言葉では表現しきれないものが、その動作の中にあった。機会を与えてくれたことへの感謝。正直でない答えを、それでも受け止めてくれたことへの感謝。そして、最後まで心配してくれたことへの感謝。

「ありがとうございました」

顔を上げ、踵を返す。

扉に向かって歩き出したとき、背後から竹中の声がかかった。

「佐伯くん」

佐伯は足を止めた。

振り返らなかった。振り返れば、何か余計なことを言ってしまいそうだった。弱気なことを。あるいは、本当のことを。自分でも認められていない本当のことを。

「強くなって戻ってこい」

竹中の声は静かだったが、その奥には確かな熱があった。

「WWEPは、君の帰りを待っている」

佐伯は振り返らないまま、深く頷いた。

声を出したら、何かが崩れてしまいそうだった。目の奥が熱くなっている。鼻の奥がつんと痛む。泣きそうだった。それを悟られたくなかった。プロレスラーが、しかもヒールが、上司の前で涙を見せるわけにはいかない。

ドアノブに手をかける。

冷たい金属の感触が、掌に伝わった。三日前と同じ冷たさだ。だが、その冷たさの意味が変わっている。三日前は不安に震える手で触れたドアノブに、今は覚悟を決めた手で触れている。

扉を開け、廊下に出た。

重厚な扉が背後で閉まる。低い音が廊下に反響し、やがて消えていく。その音は一つの区切りを告げていた。ここまでが「前」で、ここからが「後」だ。

佐伯は深く息を吐いた。

長い息だった。肺の奥に溜まっていた重い空気を、全て搾り出すような呼吸。緊張が解け、肩の力が抜けていく。身体が軽くなったような錯覚があった。

廊下の窓から、冬の午後の光が差し込んでいる。

三日前には届かなかった光が、今日は佐伯の立っている場所まで伸びていた。薄い橙色の光の帯が、カーペットの上に細く描かれている。佐伯の靴先が、その光の中にあった。

新しい場所。新しい環境。新しい上司。

そして、郡がいる場所。

不安はある。何が待っているのか分からない。カイザー金岩という男が、どんな人間なのかも分からない。郡と再会したとき、何を言えばいいのかも分からない。なぜ推薦したのかと問い詰めるのか。礼を言うのか。それとも、もっと別の言葉が口をつくのか。

分からないことだらけだ。

だが、もう決めた。

署名はした。言葉も口にした。前に進むと決めたのだ。

佐伯瑛太は歩き出した。

廊下を進む足取りは、三日前にここを訪れたときよりも確かだった。窓から差し込む冬の陽光が、その背中を照らしている。

エレベーターホールに向かう途中、壁に飾られた写真パネルの前を通り過ぎる。歴代チャンピオンの雄姿、名勝負のワンシーン、満員の観客席。WWEPの歴史を彩る光の数々が、額縁の中で輝いていた。

三日前は眩しく感じたその光を、今日の佐伯は正面から見ることができた。

自分がこの光の中に立てる日が来るかどうかは分からない。だが、立とうとする意志だけは、今の自分の中に確かにある。

エレベーターのボタンを押す。

下向きの矢印が点灯した。

数秒後、到着を告げるチャイムが鳴り、銀色の扉が開く。佐伯は乗り込み、一階のボタンを押した。

扉が閉まる。

下降が始まる。

階数表示が一つずつ減っていく。最上階から離れるたびに、竹中の声が遠くなっていく。だが、その言葉は消えなかった。

「駒で終わるな」

「君は君だ」

「強くなって戻ってこい」

その一つ一つが、佐伯の中に沈み、根を張り始めている。

エレベーターが一階に着き、扉が開いた。

ロビーに出ると、正面の自動ドアの向こうに冬の街が見えた。灰色の空の下、行き交う人々の姿がガラス越しに揺れている。

佐伯は自動ドアを抜け、外に出た。

冬の冷気が、頬を打つ。

冷たかった。だが、不快ではなかった。むしろ、その冷たさが頭の中の靄を吹き飛ばしてくれるようだった。肺に流れ込む冷たい空気が、身体の隅々まで行き渡っていく。

見上げると、薄い雲の隙間から冬の陽光が覗いていた。

眩しくはないが、確かにそこにある光だ。手を伸ばしても届かないが、顔を上げれば見える光。

来週、佐伯瑛太はネクサスドリーマーズに向かう。

カイザー金岩の待つヒール軍に。

そして、郡新のいる場所に。

佐伯は冬の空を見上げたまま、もう一度深く息を吸い込んだ。

冷たい空気が肺を満たす。その冷たさを、佐伯は覚悟の味だと思った。